ドイツプロセイン王国ヨーロッパの歴史

ドイツ統一の覇権をめぐって戦われた「普墺戦争」を元予備校講師がわかりやすく解説

ビスマルクの政治

19世紀半ば、プロイセンにビスマルクが現れました。ビスマルクはオーストリアを排除し、プロイセン中心にドイツ統一を図るべきという小ドイツ主義の考え方で行動します。

ある時、ビスマルクは軍備拡張をめぐってプロイセン議会と対立しました。白熱する議論の中、ビスマルクは「現下の大問題(ドイツ統一問題)は、言論や多数決ではなく、鉄と血(軍事力と戦争)によってのみ解決される」という有名な「鉄血演説」を行いました。

それでも、軍備拡大に反対する議会を無視し、ビスマルクは大軍拡政策を実施しました。当時、首相の任命権は議会ではなく国王に会ったので、ビスマルクは議会と対立しても辞任せずに済みました。

ビスマルクはオーストリアをドイツ統一から排除するには戦争しかないと確信しています。そのためには、国内の反対を押し切ってでも戦争準備を急ぐ必要がありました。

モルトケによる軍制改革

バルト海に面するメクレンブルク。この街でモルトケは生まれました。モルトケの父がデンマーク軍の仕官だったため、最初はモルトケもデンマーク軍人になります。ナポレオン戦争後、モルトケはデンマーク軍人を辞め、プロイセンで軍人となりました。

プロイセン軍人となったモルトケは、オスマン帝国軍顧問として派遣され、エジプト・トルコ戦争に参戦します。しかし、戦意の低いオスマン軍は、指揮官の無能もあって敗北を重ねました。オスマン帝国に失望したモルトケは顧問を辞して帰国します。

1858年、モルトケはプロイセン軍参謀総長に就任。事実上、軍のトップとなります。モルトケは、急成長していた鉄道電信に目を付けました。これを活用することで、ナポレオン戦争時代よりもハイスピードで軍を展開できると考えます。さらに、野砲部隊も増強し火力の充実を図りました。

普墺戦争の経緯

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Georg Bleibtreu (1828–1892) Attributed to – 不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

ビスマルクによる統治と参謀総長モルトケの軍制改革により、プロイセン軍の実力は飛躍的に高まっていました。1864年、プロイセンがオーストリアとともにデンマークと戦ったデンマーク戦争で、プロイセン軍は勝利します。その後、プロイセンとオーストリアはシュレスヴィヒ・ホルシュタインの扱いをめぐって対立。両国は普墺戦争に突入しました。普墺戦争はケーニヒグレーツの戦いでプロイセンが勝利しすることで幕を閉じます。その間、わずか7週間でした。

デンマーク戦争

ユトランド半島南部にシュレスヴィヒ公国ホルシュタイン公国という小さな国がありました。両公国はデンマーク領ではありませんでしたが、デンマーク王が公を兼任していたため、事実上、デンマーク領として扱われます。

シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国の領有権をめぐって、プロイセン王国とデンマーク王国が対立。1848年に一度戦争となりました。この時は引き分けに終わります。

1863年、デンマークで憲法が制定され、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国にもデンマーク憲法を適用しようとしたことから、デンマーク王国とドイツ系住民の対立が激化。ドイツ系住民の要請を受け、プロイセンがデンマークに宣戦布告します。

この時、プロイセンはオーストリアにも共同出兵を要請しました。戦争の結果はプロイセン・オーストリア連合軍の勝利に終わります。

普墺戦争のはじまり

1865年、デンマーク戦争の講和条約であるガシュタイン条約が結ばれました。これにより、シュレスヴィヒはプロイセン領、ホルシュタインはオーストリア領とされます。

1866年、今度はプロイセンとオーストリアの間で対立が起きました。対立の理由はシュレスヴィヒとホルシュタインの境目をめぐるものです。1866年6月15日、プロイセンはオーストリアに宣戦布告。ホルシュタインを占領しました。

プロイセン軍はドイツ西部の親オーストリア諸国を攻撃し占領します。勢いに乗ったプロイセン軍はドイツ南部の親オーストリア諸国にも勝利。電撃的な侵攻で、反プロイセン派を次々と沈黙させました

ドイツ各地での戦いに勝利したプロイセン軍はオーストリアの首都ウィーンを目指し進撃します。総勢25万にも膨れ上がったプロイセン軍は大挙してボヘミア(現在のチェコ)に進出しました。

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