ドイツプロセイン王国ヨーロッパの歴史

ドイツ統一の覇権をめぐって戦われた「普墺戦争」を元予備校講師がわかりやすく解説

決戦!ケーニヒグレーツの戦い

ボヘミアに攻め込んだプロイセン軍は三方向から攻め込む分進合撃の作戦を取りました。分進合撃を成功させるためには、三軍の連携と高速移動が絶対条件となります。プロイセンはこの時のために5本の鉄道を整備していました。

一方、オーストリア軍の鉄道は1本。おのずと、両軍のスピードに差が出ます。オーストリア軍もプロイセン軍とほぼ同数の25万弱を動員。兵力においてはほぼ互角でした。

1866年7月3日、守備に有利な高地に陣取るオーストリア軍に対し、プロイセン軍は2方向からの攻撃を開始します。3方向からの進撃でしたが、一つの軍が少し遅れていました。

7月4日、遅れていた一軍がケーニヒグレーツの戦場に到着。三方向からオーストリア軍を攻め立てました。包囲される形となったオーストリア軍は撤退に追い込まれました。戦いは、プロイセン軍の大勝で終わります。

普墺戦争後のオーストリアとプロイセン

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ケーニヒグレーツの戦いに敗れたオーストリアは、ウィーンで最後の抵抗を試みようとしていました。しかし、オーストリアを追い詰めることを望まなかったビスマルクは首都攻撃を止め、無割譲・即時講和というオーストリアにとって寛大な条件での講和を指示します。戦後、オーストリアはドイツ統一から外され、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立しました。プロイセンは国力を強め、普仏戦勝に勝利しドイツ帝国を成立させます。

プラハ条約の締結

ケーニヒグレーツの戦いに敗れたオーストリアは、首都ウィーンを守るのが精いっぱいの状態に追い込まれます。このまま、ウィーンを陥落させることも可能でしたが、ビスマルクはオーストリアを追い詰めようとしませんでした。彼にとって、本当の敵はオーストリアではなく、その次に戦うフランスだったからです。

1866年、オーストリアとの間でプラハ条約が結ばれます。条約ではドイツ連邦の解体やドイツ統一にオーストリアが関わらないこと、シュレスヴィヒ・ホルシュタインはプロイセンが領有すること、ハノーファー・ヘッセン・ナッサウ・フランクルフルトがプロイセン領になることが決められました。

また、プロイセンと共にオーストリアと戦ったイタリアとは別の条約を結び、ヴェネツィアを含むヴェネト地方をイタリアに譲ります。こうして、オーストリアはドイツ統一から完全に排除されました。

オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立

プラハ条約によってドイツ統一から排除されたオーストリアは、中欧から東欧にかけて領土を拡張するようになります。そのためには、オーストリア帝国内で第二位の人口を持つハンガリー人との妥協が必要不可欠となりました。

普墺戦争後に独立の姿勢を見せていたハンガリーに対し、形式上は独立場を認めます。この妥協をアウスグライヒといいますね。オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼任する点では今までと同じですが、ハンガリーにも議会を認め、ウィーンの政府とは別の政府が作られることを認めます。この特殊な形を「二重帝国」といいました。

ドイツ方面に領土を拡大できなくなったオーストリア=ハンガリー二重帝国は、バルカン半島に積極的に進出。オスマン帝国から独立したセルビアなどのスラヴ系バルカン諸国と紛争を抱えるようになりました。これが、のちの第一次世界大戦の遠因となります。

プロイセンによるドイツ統一

普墺戦争でオーストリアに勝利したプロイセンは、他の群小の領邦国家を統合し、帝国としてまとめ上げようとします。しかし、その邪魔をしてきたのがフランスでした。

1870年、エムス電報事件をきっかけにプロイセンとフランスは戦争状態に入りました(普仏戦争)。このとき、モルトケが整備したプロイセン軍は総数50万を数える精鋭ぞろい。一方のフランス軍は兵力35万で数的に劣勢です。

フランス皇帝ナポレオン3(ナポレオン1世の甥)はスダンでプロイセン軍を迎撃しますが敗北。捕らわれの身となります。

1871年、ヴェルサイユ宮殿を占領したプロイセンはフランスに城下の盟を誓わせました。フランスはアルザス・ロレーヌ地方を失い、多額の賠償金の支払いに同意させられます。そして、プロイセンはヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国成立を宣言しました。

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