室町時代戦国時代日本の歴史

豊臣家の滅亡で幕を下ろした「大坂夏の陣」栄光を誇った豊臣家はどうして負けた?わかりやすく解説

豊臣秀吉が天下を取り、栄光の頂点に立った豊臣家。しかしその滅亡は予想外に早く、あっけないものでした。大坂夏の陣は、大坂城落城と秀吉の息子・豊臣秀頼とその母・淀殿の死によって終幕を迎えます。なぜ、天下を取ったはずの豊臣家はあっさりと滅んだのでしょうか。大坂夏の陣で奮闘するも散って行った武将たちの姿と、豊臣家敗北の要因をわかりやすく解説していきたいと思います。

大坂夏の陣が始まるまで

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大坂冬の陣は和睦が結ばれましたが、その間に大坂城の二の丸や三の丸が壊され、堀が埋め立てられていきます。徳川家康は体よく大坂城を裸にしてしまうと、豊臣方の浪人衆の乱暴狼藉を口実に、再び出兵を計画しました。対する豊臣方も戦の準備を開始し、大坂夏の陣に突入するのですが、豊臣方は内部で諍いがあり、結束力はお世辞にも強いとは言えませんでした。これが最後まで尾を引くこととなります。

大坂冬の陣と短い休戦期間

慶長19(1614)年11月から始まった大坂冬の陣は、徳川方が放った大砲が淀殿のすぐそばに命中し、彼女を大いに震えあがらせたことで和議へと加速し、休戦となりました。しかしそれも長くは続きません。大坂城の二の丸や三の丸が壊され、外堀が埋め立てられたものの、豊臣方は召し抱えた浪人衆を解雇せずにおり、徳川方も大砲の鋳造をするなど臨戦態勢を崩していなかったのです。

そんな中、豊臣方の浪人たちが大坂の市中で乱暴を働いたり、埋め立てたはずの堀を掘り返したりしてしまいます。

このため、徳川家康は豊臣家に浪人衆の解雇、もしくは豊臣家の移封を要求しました。しかし案の定その要求は突っぱねられ、ならばと家康は大坂に向けて大軍を率いて出発したのです。

おそらく、豊臣方の拒絶は、家康にとっては想定内だったと思います。むしろ、彼にとっては好都合だったのかもしれません。これで、豊臣家を叩き潰す口実が出来たのですから…。

こうして、慶長20(1615)年5月に大坂夏の陣が開戦することとなるのです。

一枚岩でない豊臣方

続々と徳川方の武将たちが大坂へと集結する一方、豊臣方の内部では主戦派と和睦派で対立が起きていました。和睦派だった大野治長(おおのはるなが)が、何者かに襲われ負傷してしまったのです。首謀者は治長の実の弟である大野治房(おおのはるふさ)だったとも言われており、だとすればとんでもない話でした。これではとても一枚岩とは言えませんよね。

それに加えて、豊臣方を統率するはずの豊臣秀頼の存在がまったく見えてきません。本来ならばこうした事態に対し、主としてのリーダーシップを発揮すべき時であるはずなのに、彼のアクションはほぼありませんでした。

大坂夏の陣の始まり

こんな内部のゴタゴタがありながら、結局は主戦派が主導権を握った豊臣方は、浪人たちに金銀を与えて戦の準備をするように命じました。

とはいえ、浪人たちは豊臣家への純粋な忠誠だけで従っている者ばかりではありません。形勢不利と見るや去ってしまった者たちもおり、冬の陣の時よりも兵力は少なくなってしまったのです。その上、堀も埋め立てられ、丸裸となってしまった大坂城では、とても籠城などできません。豊臣方は徳川方の大軍を前に、野戦に臨むしか選択肢はなかったのです。

慶長20(1615)年4月26日、大野治房が徳川方の大和郡山城(やまとこおりやまじょう)を落とした戦いが、大坂夏の陣の始まりでした。そしてこの勝利が、豊臣方で唯一の勝利となったのです。

次々と倒れ行く豊臣方の武将たち

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ついに徳川の大軍勢と対峙することとなった豊臣方ですが、兵力差や連携の悪さにより、各地の戦いで敗北を重ねていきます。頼みの綱の大坂城五人衆も次々と敗退を重ね、豊臣方の旗色の悪さが鮮明になっていきました。

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