道明寺の戦いで露呈した豊臣方の連携の悪さ
緒戦には勝利を収めた豊臣方ですが、ここからだんだんと追い込まれていきます。
大坂城に向かう徳川方を何とか食い止めようと迎撃に打って出た豊臣方の軍勢は、道明寺(どうみょうじ)の戦いに臨みました。
大坂城五人衆のひとり・後藤基次(ごとうもとつぐ)はまず先陣を切って出発し、道明寺に布陣します。ところが、ここで豊臣方の連携の悪さと天候により、基次は孤立してしまいました。後から続くはずの真田信繁(さなだのぶしげ)と毛利勝永(もうりかつなが)が、濃霧の影響もあって遅れてしまったのです。
こうして、基次はたった2,800の兵で2万を超える徳川勢を相手にしなくてはならなくなってしまいました。こうなれば結果は最初から決まったようなもの。歴戦の勇将である基次は何度か徳川勢を撃退しましたが、多勢に無勢。約8時間持ちこたえましたが、基次は壮絶な討死を遂げ、豊臣方は敗北してしまったのです。
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お家再興を夢見て奮戦した長宗我部盛親
後藤基次が討死したのと同じ日、別ルートで大坂城に向かう徳川勢を迎え撃ったのが、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)や木村重成(きむらしげなり)らの豊臣方でした。これが八尾(やお)・若江(わかえ)の戦いと呼ばれています。
お家再興が悲願の長宗我部盛親は、藤堂高虎(とうどうたかとら)隊を襲い、多くの武将を討ち取るなど善戦しました。しかし、そこで木村重成隊の壊滅を受けて大坂城へと退却しなくてはなりませんでした。ここでは生き延びた盛親ですが、豊臣方の敗北後に捕らえられ、斬首となる運命が待ち受けているのです。
家康を感嘆させた木村重成が散った八尾・若江の戦い
一方の木村重成は、経験の浅い若武者ながらも奮戦します。しかし、徳川方の突撃によって部隊は壊滅。重成も討死を遂げました。
重成の首実検をした家康は、彼の頭髪に焚きこめられた香の薫りに、彼の覚悟を感じ取って感嘆したと言われています。重成は戦の前からすでに、戦場に出て討ち取られ、首を奪われることまで覚悟していたのです。
若い身重の妻を残して戦場に出た重成は、敵味方問わず印象を与えました。なお、この妻は出産後に夫の後を追って自害したとも言われています。
夏の陣の終わり:大坂城と共に滅びた豊臣家
豊臣方に属した武将たちは、持ちうる力を尽くして戦いました。真田信繁や毛利勝永らは、一時、家康の本陣に攻め込み、家康に死を覚悟させるほどにまでの勢いを見せます。しかし、最後まで豊臣秀吉の出馬はなく、戦は兵たちだけに丸投げされたのです。そして万策尽きた豊臣方は、燃え落ちる大坂城と運命を共にすることになりました。
最終決戦!天王寺・岡山の戦い
次第に追い詰められていった豊臣方の最後の頼みの綱は、真田信繁と毛利勝永、そして明石全登(あかしぜんとう)でした。
最終決戦に当たり、彼らは迫りくる徳川方を丘陵地に引きつけ、敵が伸び切ったところで手薄になった本陣に突入し、家康の首を取るという決死の作戦を実行に移すことにします。これで秀頼自らが出馬すれば、士気も上がり、勝利も見込めると考えていたのです。
そして出撃した毛利勝永隊は、大坂城五人衆の名に恥じないすさまじい戦いぶりを見せつけます。徳川方の先鋒を壊滅させた勝永は、二番手・三番手も突き崩すと、作戦通り家康の本陣をスカスカにしたのです。
家康本陣に突撃した真田信繁
そこで突撃をかけたのが、真田信繁でした。
家康本陣が手薄になったのを見て取った信繁は、3回も突撃を敢行します。軍装をすべて赤一色でそろえた赤備え(あかぞなえ)の真田隊は、家康の本陣を大混乱に陥れました。
家康は命からがら逃げ出し、なんとか命を長らえましたが、途中で切腹を覚悟するほどだったと言います。しかも、馬印(うまじるし)まで倒されるという屈辱を味わったのでした。馬印とは大将の居場所を示す目印で、これを倒されることはとんでもない不名誉だったのです。
ただ、徳川方は圧倒的に数に勝っていました。次第に態勢を建て直して反撃に出ると、真田・毛利隊を蹴散らしにかかります。
すでに満身創痍の信繁は、何とか安居神社(あいじんじゃ)に辿り着きましたが、そこで敵兵に討ち取られました。「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称された彼は、ここで力尽きたのです。