豊臣秀頼に欠けていたもの
本来ならばここで出馬するはずの豊臣秀頼でしたが、結局、それはなりませんでした。武将たちはみな彼の出馬を心待ちにしていましたが、それに猛反対したのが、淀殿だったのです。結局、母親の反対だけで秀頼は兵たちの前に姿を見せることはありませんでした。
なぜここで秀頼が淀殿の反対を押し切ってでも出馬しなかったのか、疑問が残ります。もしや本当に出馬したくなかったのか…それはわかりませんが、ここにも秀頼の意思を見ることはできません。このリーダーシップの欠如が、豊臣家の敗北の大きな要因と思えてなりませんね。
敗残兵をまとめて毛利勝永が大坂城へと退きましたが、そこへ徳川勢はなだれ込み、ついに城に火が放たれました。この直前、秀頼の正室で家康の孫娘である千姫が救出されましたが、彼女の命乞いに秀頼らの運命が託されていたのです。
秀頼の自刃で豊臣家は滅亡
しかし、千姫の助命嘆願にたやすくうなずくような家康ではありませんでした。
あっけなく望みを断たれた秀頼と淀殿は、燃え落ちる大坂城と運命を共にします。毛利勝永の介錯によって秀頼は自刃し、淀殿や大野治長らもそれに続きました。
こうして、天下の豊臣家はあっけなく滅亡したのです。徳川家と江戸幕府の天下が確定した瞬間でした。そして以後数百年は、将軍となった徳川家による江戸時代の太平の世が続いていくのです。
ところで、秀頼や信繁については生存説が絶えませんでした。大坂城落城直後から、巷ではこんな歌が流行したそうです。
「花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田が連れて 退(の)きも退いたり 鹿児島へ」
鹿児島にも、秀頼生存伝説が伝わっているそうですよ。
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最初から決まっていた大坂夏の陣の結末
大坂夏の陣の勝敗は、始まる前からすでに決まっていたように思えます。豊臣秀吉というカリスマの喪失は、豊臣家にとっては致命的でした。秀頼が蝶よ花よと大切に育てられすぎたために、彼はリーダーにふさわしい主体性と行動力を母・淀殿によって抑えつけられてしまったようです。もし彼に母を振り切る意思があったなら、結果は同じとはいえ、城を枕に討死を遂げた兵たちも浮かばれたような気がしてなりません。