山岡鉄舟の青年期
幕末、山岡鉄舟は江戸に住む幕臣の子として生まれました。若いころから剣術の修業に励み、千葉周作や山岡静山のもとで武芸を磨きます。剣や槍の修業を行いました。槍の師である山岡静山が亡くなると、静山の妹である英子(ふさこ)と結婚し、山岡家の婿養子となって山岡家を相続しました。
生い立ち
山岡鉄舟は、天保7年(1836年)に幕臣である小野朝右衛門高福の子として生まれました。本名は高歩(たかゆき)。通称は鉄太郎といいます。後世に知られる鉄舟は成人後に自ら名乗った号でした。
徳川家(江戸幕府)に仕える武士(幕臣)は比較的多くの給与をもらっている旗本と、それ以下の御家人に分けられます。小野家は旗本の家柄でした。父の小野朝右衛門高福は、幕府の役職につき、地方にも出向いた人物です。
9歳のころ、父が飛騨郡代に任じられたため、父と共に飛騨高山で少年時代を過ごしました。
飛騨は現在の岐阜県北東部の地域のこと。郡代とは、幕府領土(天領)の行政官で、複数の代官を束ねる職です。父が飛騨郡代在任中に死去したのち、鉄舟は江戸にもどりました。
剣の修行と講武所入り
小野家は代々、武芸を重んじる家柄。そのため、鉄舟も幼いころから武芸を習います。鉄舟には武芸に関する天賦の才がありました。9歳のころから学んだのは神陰流(直心影流剣術)です。直心影流剣術は江戸時代に最も広く流布した流派の一つで、早い段階から竹刀と防具を取り入れていました。
江戸にもどった鉄舟は井上清虎から北辰一刀流を学びます。北辰一刀流は千葉周作が創始した剣術と薙刀の流派ですね。
1855年、鉄舟は井上の推薦により講武所に入ります。講武所とは、幕府が設置した武芸訓練機関でした。ペリー来航を機に作られた組織です。
江戸に活動の拠点を置いた鉄舟は、北辰一刀流の開祖である千葉周作や忍心流槍術の使い手である山岡静山のもとで、武芸に磨きをかけました。
山岡家の相続と義兄高橋泥舟
鉄舟が師事した山岡静山は幕末きっての槍の名人でした。かつては、南里紀介との勝負で4時間にわたる大試合を演じるなど、江戸じゅうに名が知られた人物です。1855年、山岡静山は27歳の若さで亡くなってしまいました。
山岡家の男子は全て婿養子などで家を出ていたため、山岡家を継ぐべき人がいません。そこで、山岡静山の弟である高橋泥舟は、静山の弟子でもっともすぐれた小野鉄太郎こと、鉄舟と静山と泥舟の妹である英子(ふさこ)を結婚させ、鉄舟に山岡家を継がせました。
鉄舟の義兄にあたる高橋泥舟は、鉄舟と共に幕末三舟に数え上げられるほどの武芸者です。兄に師事し、槍の腕前は神業とも称されました。誠実剛毅な人柄で、のちに徳川慶喜の警備隊長になっています。
結婚して山岡家を相続した鉄舟は、抜群の武芸を評価され講武所の世話役になりました。
動乱の幕末を生き、江戸開城に貢献した山岡鉄舟
日米修好通商条約成立後、外国との貿易が始まりました。開国・貿易は日本社会に大きな影響を与えます。それまで、絶対的だった幕府の力は桜田門外の変などにより一気に低下。尊王攘夷派の志士が各地で活動する状態となります。山岡は浪士組の結成に参加しますが、浪士組の動きを警戒した幕府によって、浪士組は解散。山岡は謹慎処分となりました。その後、幕府の役職に就いた山岡は江戸に攻め込もうとする西郷と直談判することになります。
幕府の動揺と浪士組の結成
1860年、日米修好通商条約締結を幕府の独断で行った大老の井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されました。あとを継いだ老中の安藤信正は朝廷と幕府が協力して難局を乗り切る公武合体を主張し朝廷と接近。孝明天皇の妹である和宮と将軍家茂の妻に迎えることに成功しました。
しかし、朝廷の権威を重んじ、外国勢力を追い出そうと考える尊王攘夷派は、幕府が朝廷を政治利用していると考えます。1862年、安藤信正が坂下門外で浪士たちに襲撃され失脚。公武合体運動は行き詰まりました。
1863年、将軍家茂が229年ぶりに上洛することが決まりました。この時、将軍警固のために作られた組織が浪士組です。浪士組をつくったのは清河八郎という人物でした。山岡鉄舟は幕臣として浪士組の取締役の一人に任じられます。
しかし、発案者の清河八郎は浪士組を将軍警固ではなく尊王攘夷運動のために使おうとしたため幕府が警戒。浪士組に江戸帰還命令が下されました。清河は江戸にもどったあと暗殺されます。これにより、浪士組は存在意義を失い解散しました。鉄舟は浪士組解散後、謹慎処分とされます。
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