山岡と西郷の会談
勝は、はじめ山岡鉄舟の義兄である高橋泥舟を下交渉の使者として西郷の元に派遣しようとしました。しかし、高橋は慶喜の警固隊長で、慶喜の信任が極めて厚い人物。そのため、高橋を慶喜のもとから引き離して西郷のところに派遣することは出来ませんでした。かわって、山岡が西郷のもとに派遣されます。
山岡は、東海道にひしめく官軍を目の前にして、「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声でよばわり、堂々と官軍の中を歩いていきました。駿府に到達した山岡は、西郷の下に通されます。
山岡は勝から託された手紙を西郷に手渡し、慶喜に抵抗の意思がないことを伝えました。このとき、西郷は山岡に五つの条件を伝えます。山岡は江戸城の引渡しや城中の兵を向島に移すこと、兵器や軍艦の引渡しについては同意しました。しかし、五つ目の条件である慶喜を備前藩の預かりとすることに関しては、拒否します。
西郷は、「勅命である」として譲りませんでしたが、山岡は「あなたの主君である島津公が同じことを要求されて受け入れられるか」と西郷を説得。西郷も、納得して取り下げました。これにより、江戸開城の道筋がととのいます。
明治維新後の山岡鉄舟
明治維新後、山岡は静岡藩主となった徳川家達にしたがって静岡に下りました。静岡藩で要職を務めた後、山岡は西郷の推薦で明治天皇の侍従となります。時には、まだ若かった明治天皇を強く諌めることもありました。山岡は西郷との約束どおり10年間、明治天皇の侍従を勤めたあと辞職。1888年に52歳で亡くなりました。
静岡藩時代の山岡鉄舟
勝海舟や山岡鉄舟らの交渉により、江戸城は新政府軍に無血開城されました。徳川慶喜は江戸城を出て寛永寺で謹慎します。江戸を占領した新政府軍は、旧幕臣や江戸で結成されていた彰義隊が慶喜を担ぎ出すのを恐れ、慶喜を水戸に移しました。
慶喜が隠居・謹慎したことを受け、徳川宗家は田安亀之助が相続を認められます。田安亀之助は徳川家達と名を改め、徳川宗家の当主となりました。
1869年、徳川家達は徳川家に与えられた静岡藩70万石を治めるため、駿府に下向。山岡鉄舟は徳川家達に同行します。静岡藩の政治に携わった山岡は、牧之原台地の開墾事業に携わり、茶の生産についてアドバイスしました。
また、山岡は侠客の清水次郎長と意気投合。次郎長に「壮士之墓」と書を揮毫して与えました。山岡は書の名手でしたが、頼まれればいろいろな人に書いていたので、現在でも山岡の書は各地に残っていますよ。
明治天皇の侍従として
1872年、山岡は維新の元勲となっていた西郷隆盛から、明治天皇の侍従になってほしいと頼み込まれます。侍従とは、天皇の側近に仕える人々のこと。西郷は、山岡の剛直な人柄を見込んで、若い明治天皇の側近として仕えてほしいと考えたのでしょう。
最初、山岡は西郷の頼みを任にあらずと断ります。しかし、西郷は何としても受けてほしい。10年限りでよいからと山岡を説得。結局、山岡が折れ明治天皇の侍従となりました。
あるとき、明治天皇は酒に酔って山岡に相撲を挑みます。山岡は天皇と臣下が相撲を取ってはならないと考え断りました。明治天皇は怒り、山岡を殴りつけようとします。しかし、山岡が交わしたのでさらに怒りました。
天皇が退出した後、他の側近が天皇にお詫びすべきといいましたが山岡は頑として聞きません。山岡が言うには、明治天皇に自分を殴らせると、明治天皇は酒に酔って臣下を殴ったという不名誉を負ってしまう。だから、かわしたといって謝罪しませんでした。この顛末を聞いた明治天皇は山岡に詫びます。
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山岡の死
山岡は、西郷との約束どおり10年間、明治天皇の侍従を勤めました。その間、皇居で火災が発生したときに真っ先に駆けつけるなど、明治天皇への忠節一筋に仕えた様子が伺えます。1882年、明治天皇の侍従として10年仕えた山岡は侍従の職を退きました。その5年後、山岡はこれまでの功績に対し子爵の称号を贈られます。
1888年、山岡はかねてからわずらっていたと思われる胃がんによってこの世を去りました。死ぬ間際、山岡は皇居に向かって座禅の形である結跏趺坐で座りながら亡くなります。剣だけではなく、禅においても達人の域に達していた山岡らしい最後でした。
山岡の死後、門人の何人かが殉死し山岡のあとを追います。また、ある門人は山岡の墓の前で三年もとどまり続けました。よほど、彼らに愛された人生だったのでしょう。
士族たちに寄り添い続けた山岡鉄舟
1869年、元士族の木村安兵衛がパン屋を開業しました。木村と山岡は剣術を通した旧知の仲だったといいます。木村安兵衛は日本人好みのパンを作ろうと試行錯誤。その結果、あんぱんが生まれました。あんぱんを食べた山岡は、明治天皇に食べていただこうと考えます。1875年、木村安兵衛は山岡を通じて明治天皇にあんぱんを献上。明治天皇から引き続き収めるようにとの言葉をいただきました。静岡藩時代も士族たちに茶の栽培を指導するなど、山岡は旧士族たちの生活を気にかけていたのかもしれませんね。