石川啄木の生い立ちと青少年時代
明治時代の中ごろ、岩手県に生まれた石川啄木は雑誌『明星』の影響を受け、短歌の道に足を踏み出します。上京した啄木は雑誌『明星』への投稿で縁を持った与謝野鉄幹・晶子夫妻と会うことが出来ました。結核を発病した啄木はやむなく帰郷。その後、上京と帰郷を繰り返しつつ主に盛岡で活動し、一家の生計を支えました。
啄木の生い立ち
1886年、啄木は岩手県南岩手郡日戸村(現盛岡市日戸村)に生まれました。曹洞宗の僧侶石川一禎(いってい)とカツの長男として生まれ、一(はじめ)と名づけられます。姉二人と妹一人に挟まれた医師乾け唯一の男子でした。
1891年、5歳のときに渋民村(現盛岡市渋民)の渋民尋常小学校に入学します。9歳で盛岡高等小学校、12歳で盛岡尋常中学校(盛岡中学)に進学しました。
盛岡中学は文化人を数多く輩出した学校です。岩手毎日新聞の岡山不衣、言語学者でアイヌ語研究などで知られる金田一京助、啄木卒業の10年後に盛岡中学に入学した宮沢賢治などが有名ですね。
のちに、啄木の妻となる堀合節子も盛岡中学に在学していました。啄木が本格的に文学に興味を持ったのは盛岡中学時代だったようで、短歌会である「白羊会」をつくります。
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短歌活動を行う中、『明星』と出会う
1901年、啄木は地元紙の岩手日報に短歌を投稿します。このころ、啄木の雅号はまだ使っておらず、「翠江」と名乗っていました。「翠江」と名乗っていたころの作品に「花ひとつさけて流れてまたあひて白くなりたる夕ぐれの夢」というのがありますよ。
啄木は雑誌『明星』に短歌を投稿しました。『明星』は、当時新進気鋭の文化人だった与謝野鉄幹が主催する文芸誌。ロマン主義運動の中心として世に知られる雑誌でした。
啄木が投稿する前年、与謝野鉄幹は鳳晶子の類まれな才能を見抜き、詩集『みだれ髪』を出版させました。鳳晶子はのちに鉄幹と結婚し、与謝野晶子となります。このころの鉄幹は才能が冴え渡っていたといってよく、鉄幹に見出された啄木は、さぞかし喜んだことでしょう。
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上京、結核発病、帰郷
1901年11月、啄木は『明星』を編集・発刊していた与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪問しました。啄木は、出版社などに就職しようとあちこち訪問しましたが、一向に成果が出ません。
そうこうしているうちに、啄木は結核にかかってしまいました。明治時代、結核はとても恐ろしい病気。結核になった人の8割は肺が悪くなり、せきや痰、発熱などの症状が長く続きます。更に悪化すると血を吐くこともありました。正岡子規も結核で苦しんだことが知られていますね。
1903年、就職がうまくいかず、結核にかかってしまった啄木は父に迎えられ故郷の岩手に帰りました。帰郷した啄木は岩手日報や明星に短歌を投稿します。啄木の雅号(ペンネーム)を使うようになるのはこのころからですね。
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父の失職、結婚、文芸誌『小天地』の出版
1904年、啄木は交際を続けていた堀合節子と結婚について話し合いました。話し合いの6日後、啄木は堀合家に赴き、節子との婚約に関して同意を得ます。
そのころ、父は経済的に行き詰まっていました。1904年12月、父は曹洞宗の本部から、納入すべき宗費113円を滞納していたことを理由に渋民村宝徳寺の住職を罷免されてしまいます。これにより、一家は生計を立てる道を失ってしまいました。
そのため、啄木は一家の生計を支える大黒柱となります。父母や妹と同居しながら、啄木は文芸誌『小天地』を発行しました。正宗白鳥や小山内薫らの作品を掲載した『小天地』は好評を博し地方文芸誌として高く評価されます。しかし、資金難のため続刊することは出来ませんでした。
新天地、函館に移り住んだ啄木
1906年、啄木は岩手県の代用教員として生計を立てていました。翌年、啄木は新生活を切り開こうと函館に移住します。当時の函館は東北以北有数の都市で、文芸活動も盛んでした。函館で商工会議所の臨時雇いや代用教員として生計を立てますが、1907年に函館が大火に見舞われ、啄木が働いていた小学校や新聞社が消失。啄木は生計に道を失います。
明治末から大正、昭和にかけて繁栄した函館
啄木が新生活を切り開こうとした函館。当時はいったいどのような街だったのでしょうか。幕末、日米和親条約によって箱館は開港しました。戊辰戦争では旧幕府軍が西洋式城塞の五稜郭に立てこもって新政府に抵抗します。
戊辰戦争後、函館は北海道開拓の中心となりました。北海道庁が札幌につくられ、北海道の行政の中心が札幌になっても、函館は北海道経済の要の街として機能します。海産商や倉庫業が繁栄し、函館出身の大商人たちが、街の整備に力を尽くしました。
また、函館は北海道の玄関口としての役割ももっていました。そのため、新天地北海道で一旗揚げようという多くの人々が本州各地から函館にやってきます。啄木も、そうした志を持った一人でした。
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