日本の歴史明治

肺結核のため若くしてこの世を去った歌人「石川啄木」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

函館での啄木

盛岡で活動していた啄木が函館にわたったのは1907年のこと。函館にあった文芸結社である苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)から原稿を依頼されたのがきっかけでした。1907年4月、啄木は代用教員の職をやめ、函館への移住を決意します。

啄木は妻子を妻の実家である堀合家に、妹を小樽駅長になっていた義兄に、それぞれ預けて函館にやってきました。最初は、函館商工会議所の臨時雇いとして生計を立てます。1907年6月からは函館区立弥生小学校の代用教員となりました。この時期、啄木は宮崎郁雨と出会い、死去の前年まで交友することになります。

函館での生活が徐々に安定してきた1907年6月から7月にかけて、啄木は函館に妻子を呼び寄せました。8月になると、小学校の代用教員を務めながら、函館日日新聞社の記者にもなります。

啄木の生活の糧を奪った大火

順風満帆とも見えた啄木の函館生活は突然終わりを迎えます。その原因は1907年に起きた函館大火でした。函館は風が強く、地形の特性上、家屋が密集しやすい街でした。そのため、幾度か火災に見舞われています。中でも規模が大きい火災を大火と呼びました。

函館は1907年と1934年に大火に見舞われています。啄木が被災したのは1907年におきた明治40年の函館大火でした。焼失面積は40万坪、焼失家屋は12,000余戸に及びます。啄木の仕事場であった弥生小学校や函館日日新聞社も大火によって焼け落ちてしまいました。生活の糧を失った啄木は、やむなく函館を去り単身で札幌へと移り住みます。

札幌では北門新聞や小樽新聞の記者になりますが、あまり長続きせず、短期間で退職しました。1908年には釧路新聞の編集長になりますが、東京への憧れも募ってきた啄木は、短期間で辞め、東京へと向かいます。

啄木の後半生

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東京で文学活動を再開した啄木は、東京日日新聞の校正係などをしながら『明星』などに投稿します。そんな中、1910年に起きた大逆事件に対し、啄木は強い関心を持ちました。1910年12月、啄木は第一歌集である『一握の砂』を出版します。精力的に活動する啄木でしたが、若き啄木に死は容赦なく近づいていきました。

東京で活動再開

1908年、釧路から東京へと移り住んだ啄木は与謝野鉄幹とともに、森鴎外主催の観潮桜歌会に参加します。その後も、各所に精力的に売り込みをかけますがなかなかうまくいきません。

1908年6月、啄木は『明星』に246首もの短歌を投稿しました。この中には、後年有名に「東海の 小島の磯の 白砂に 我泣きぬれて 蟹とたわむる」などが含まれます。

1908年に『明星』が終刊すると、啄木は『スバル』の刊行準備をしました。『スバル』は森鴎外や与謝野鉄幹、与謝野晶子らが協力して発行した文芸雑誌で、啄木が発行人を務めました。啄木は『スバル』で小説『赤痢』などを発表しますが、あまり芳しい評判を得ることができません。

このころ、啄木は東京日日新聞の校正係の職を得ました。と同時に、啄木は『ローマ字日記』を書き始めます。『ローマ字日記』は啄木の娼館通いなどについて生々しく書かれていました。友人の金田一京助は、啄木の借金の大半が娼館通いでできたものだと証言していますね。

大逆事件への興味

1910年、明治天皇の暗殺を謀ったとして幸徳秋水ら社会主義者が逮捕されました(大逆事件)。明治末期から大正時代は労働運動や社会主義運動が盛んな時代でしたが、警察などによる取り締まりが厳しくなります。その矢先に起きたのが大逆事件でした。

幸徳秋水ら大逆罪で起訴され、裁判にかけられます。裁判中、幸徳秋水らは無罪を主張しました。しかし、翌年下された判決で幸徳らに死刑が言い渡されます。

啄木は大逆事件に異常ともいえる興味を示しました。啄木は友人であり、大逆事件で幸徳秋水の弁護を担当した平出修から幸徳が弁護士にあてて書いた意見書を入手し筆写します。啄木が幸徳秋水や大逆事件に対し並々ならぬ興味をも抱いたのは、大逆事件以前から社会主義運動に興味を持っていたからだとされますね。

短歌集『一握の砂』と『悲しき玩具』

1910年、啄木は第一歌集『一握の砂』を出版しました。献辞では、宮崎郁雨や金田一京助ら、啄木を支えた人々とへの感謝の念や、出版年に誕生し、まもなく亡くなった長男の真一に対する哀悼の念が語られています。

『一握の砂』は全部で5部構成。合計551首を納める歌集でした。この歌集で、啄木は三行に分けて短歌を書く手法を用います。この書き方は若手を中心に多くの歌人に影響を与えました。

代表的な歌として、「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」があります。学校でもよく教材に使われる歌で、情景が想像しやすい短歌ではないでしょうか。

もう一つの『悲しき玩具』は啄木没後に出版された歌集です。読みは「かなしきがんぐ」とされることが多いですが、啄木自身は「かなしきおもちゃ」と読んでいたともいわれますね。「新しき 明日の来るを 信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど」など194首が収められていますよ。

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