幕末日本の歴史江戸時代

四賢侯の一人として活躍した宇和島藩主「伊達宗城」を元予備校講師がわかりやすく解説

江戸時代後期、四国の10万石程度の藩が中央政界で重きをなしたことがありました。その藩とは愛媛県にあった宇和島藩。宇和島藩が政界で重きをなすことができたのは、英明な藩主である伊達宗城(だてむねなり)の存在があったからです。伊達宗城は、いかにして幕末政界を動かす大物になったのでしょうか。今回は、宇和島藩と伊達宗城の歴史について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

宇和島藩の成立と江戸中期の藩政改革

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宇和島藩の象徴である宇和島城は、1596年に藤堂高虎によって築城されました。高虎が別の土地に移された後、宇和島藩は一時的に富田氏の支配に入ります。1614年、伊達政宗の子である伊達宗城が大坂の陣の戦功として宇和島を与えられました。江戸時代中期、他藩と同様、宇和島藩も財政赤字に苦しみますが藩政改革を実行。危機を乗り越えます。

藤堂高虎が築城した宇和島城

宇和島を含む伊予国(現在の愛媛県)西部の宇和郡は戦国大名の西園寺家が支配していました。豊臣秀吉の四国征伐後、宇和島周辺は小早川氏戸田氏の領地とされます。

1595年、宇和郡は藤堂高虎の支配下に入りました。藤堂高虎は城の設計(縄張り)の名手として知られています。高虎は、西園寺氏の時代からあった丸串城の跡地に宇和島城をつくりました。

築城当初の宇和島城は西側が海に面し、東側に海から海水を引き込んだ水堀を持つ城で、海に面しているという点で海城といってもよいでしょう。高虎は関ヶ原での戦功で今治に移ることが決まっていましたが、城の完成を見届けた上で移転します。

伊達秀宗の宇和島入部と2代藩主宗利による宇和島城改修

藤堂高虎が今治へと移った後、富田氏が宇和島に入ります。しかし、1613年に富田氏が幕府によって改易されると、宇和島は一時的に藤堂家の預かりとなりました。

1614年、仙台の戦国大名伊達政宗の子である伊達秀宗が、大坂の陣の戦功により宇和島藩10万石を与えられました。政宗は秀宗が正室である愛姫の子供でなかったことや、豊臣秀吉の側近として取り立てられていたことなどから、本家の相続を見合わせたのかもしれません。

秀宗は仙台の本家を相続できなかったことで政宗と対立しますが、のちに和解します。

2代藩主伊達宗利は、村役人制度の整備や検地、紙の専売制度などを行い藩の財政基盤を固めました。しかし、戦国後期に作られた宇和島城の老朽化が激しくなったため、多額の資金を投入し宇和島城を改修。これにより、藩の財政は苦しくなります。

苦しい藩の財政と江戸中期の藩政改革

宗利の死後、歴代藩主は苦しい藩の財政再建を目指しました。しかし、目立った効果を上げることができません。

宇和島藩5代目藩主となった伊達村候は60年の長きにわたって藩政を主導した殿さまです。村候の一番の課題は財政再建でした。村候は倹約令を発布し支出を抑える一方、木蝋や紙の専売を強化し収入増加を図ります。

木蝋とは、ハゼノキやウルシなどを原料として作るもので、和ロウソクの原料の一つでした。こうした商品作物の奨励などにより、宇和島藩の財政は好転します。

享保の大飢饉のときは窮民の救済をおこないました。しかし、天明の大飢饉の時には有効な対策が打てません。そのため、領内では百姓一揆や村方騒動が相次ぎました。

幕末・維新期に「四賢侯」とよばれた伊達宗城

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第8代宇和島藩主の伊達宗城は、幕末の諸大名の中でも屈指の名君とされ「四賢侯」とよばれました。宗城は先代藩主の宗紀が築いた財政基盤を受け継ぎ、蘭学研究や人材登用などで宇和島藩の力を向上させます。また、宗城は雄藩の藩主たちと共に公武合体運動を推進。14代将軍をめぐる将軍継嗣問題では一橋派の中心人物として活躍しました。しかし、井伊直弼が大老となると安政の大獄により一橋派は一掃されてしまいます。

7代藩主伊達宗紀の財政改革と伊達宗城の8代藩主就任

1824年、伊達宗紀が7代藩主となります。このころ、宇和島藩は再び財政難に苦しんでいました。宗紀は商人からの借金の一部を放棄させ、残りの借金を無利息200年賦払いとする荒業に出ます。

同時にハゼノキから作る蝋の専売強化や塩やスルメなどの特産品生産に力を入れました。財政改革に成功した宇和島藩は、宗城が藩主にあるころには6万両の貯蓄を持つまでになります。

8代藩主となった伊達宗城は幕府旗本山口家から宇和島藩に養子として入った人物でした。宗城の祖父は宇和島藩5代目藩主の伊達村候の子で、旗本の山口家に養子に入ります。そのため、宗城は伊達村候のひ孫ということになり、宇和島伊達家の血筋をしっかり受け継いでいました。1844年、宗城は藩主の座を譲られます。

蘭学者高野長英や村田蔵六の登用と蒸気船の建造

藩主となった宗城は、積極的に人材登用を図ります。宗城が目をつけたのは蘭学者の高野長英村田蔵六でした。

高野長英は長崎に留学しシーボルト鳴滝塾で学びます。非常に優秀だったので塾頭にまでなりました。1837年のモリソン号事件に対する幕府の対応を批判したため、弾圧されます(蛮社の獄)。

その後、牢の火災に乗じて脱出。鳴滝塾時代の同門だった二宮敬作の手引きで宇和島藩に赴き伊達宗城の庇護を受けます。宇和島では蘭学書の翻訳や宇和島藩兵の様式化などを請け負いました。

高野長英が去った後、宗城は長州藩から村田蔵六(のちの大村益次郎)を招聘します。村田は提灯屋の嘉蔵とともに様式軍艦のひな型となる蒸気船を一から建造しました。これは、薩摩藩と並んで国内最初期の蒸気船となります。

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