虎ノ門事件の背景
大正時代の中ころ、体調がすぐれなかった大正天皇の代わりに皇太子の裕仁親王(のちの昭和天皇)が摂政として天皇の政務を代行していました。このころ、産業革命が進んでいた日本では社会主義運動が盛んになります。1923年、関東大震災が起きると震災の混乱に乗じた社会主義者への弾圧が行われました。
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裕仁親王の摂政宮就任
1912年、明治天皇が死去すると皇太子である嘉仁天皇が大正天皇として即位しました。大正天皇の即位後、裕仁親王が皇太子にたてられます。大正天皇は体調がすぐれないことが多く、健康状態が不安視されていました。
そのため、裕仁親王の帝王教育は急ピッチで進められました。1921年、裕仁親王はイギリスなどヨーロッパ5か国を歴訪し、見聞を広めます。同年11月、裕仁天皇は大正天皇の職務を代行する摂政に就任しました。
皇族の摂政就任のため、裕仁親王は摂政宮と呼ばれるようになります。明治維新の際、摂政・関白・幕府は廃止とされていたため、摂政就任自体が異例のものでした。
大正天皇の公務はほとんど摂政宮である裕仁親王が代行したため、国民からすれば裕仁親王こそ、皇室の顔だったのではないでしょうか。
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日本の社会主義運動
明治時代の末から大正時代にかけて、日本でも社会主義運動が活発化しました。1901年、日本で最初の社会主義政党である社会民主党が結成されます。しかし、結成翌日には治安警察法により結成を禁止されました。
1906年、日本社会党が結成され、1年余り存続しますが、翌年には禁止されます。社会主義運動が高揚した背景には明治時代の労働者が置かれた劣悪な環境がありました。
政府は1900年に制定した治安警察法を用いて社会主義運動を弾圧します。1910年、社会主義者で社会民主党や日本社会党結成にも参加した幸徳秋水らが明治天皇の暗殺を謀ったとして逮捕しました。
1911年に死刑判決が確定し、幸徳ら中心人物は判決から一週間後に死刑を執行(大逆事件)されてしまいます。以後、社会主義運動は停滞を余儀なくされ、社会主義者にとっての「冬の時代」が到来しました。
関東大震災の発生
1923年9月1日、東京や神奈川など南関東地域で大規模な地震が発生しました。のちに、関東大震災と呼ばれるようになる巨大地震です。地震により家屋が倒壊。ちょうど、発生した時刻が昼時だったことから火を使っていた建物が多く、被災地の各所で火災が発生しました。
また、地震の数分後には太平洋沿岸地域や伊豆諸島にかけて津波が発生。特に、伊豆半島では大きな被害を出しました。
関東大震災による焼失家屋は21万戸以上、全半壊も含めると40万戸以上の家屋が被災します。死者行方不明者は10万人以上、負傷者を含めると20万人以上が罹災しました。
大混乱に陥り、機能がマヒした首都東京では戒厳令が施行されます。住民たちは自主的に自警団を組織し、盗難や防火などに努めようとしました。
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震災の混乱で発生した朝鮮人殺害と社会主義・無政府主義に対する弾圧
混乱を極める東京近郊で、朝鮮人が暴動を起こしているというデマが流れます。住民たちが組織した自警団や警察・軍は、朝鮮人を殺害しました。
被害者数は正確に把握されていませんが、数百から数千名の朝鮮人が犠牲になったとされます。中には、中国人や言葉が不自由な日本人が朝鮮人と間違えられ殺害されたケースもありました。
同じころ、社会主義者に対する弾圧も行われます。労働組合の幹部だった河合義虎らを警察や軍が殺害した亀戸事件や、無政府主義者の大杉栄と伊藤野枝、幼い甥の橘宗一が憲兵大尉甘粕正彦によって憲兵本部に連行され殺害される甘粕事件が発生しました。
亀戸事件や甘粕事件は、軍や警察の関係者が社会主義者・無政府主義者を非常に強く警戒していて、震災の混乱に乗じてこれを排除しようとした事件と言えるでしょう。
虎ノ門事件の経緯
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事実上の天皇代理ともいえる摂政宮裕仁親王を狙撃した虎ノ門事件。震災直後の混乱からようやく立ち直りつつあった日本中に衝撃を与えた事件でした。世上を大きく騒がせた虎ノ門事件の実行犯である難波大助とはどのような人物だったのでしょうか。難波大助の経歴と虎ノ門事件の経緯、難波大助が問われた大逆罪などについてまとめます。
実行犯となった難波大助の経歴
難波大助は1899年に山口県熊毛郡周防村に生まれました。難波家は備中高松城の籠城戦で承平を助けるために自刃した戦国時代の武将の清水宗治の弟を家祖とする名家です。
難波大助の父である難波作之進は地元選出の衆議院議員である難波作之助。父の作之進は生粋の尊王主義者で、子供たちにも尊王思想を厳しく教えたといいます。
徳山中学校時代、難波大助は陸軍大将田中義一(のちの総理大臣)が山口に帰省した際にみぞれが降る中で整列させられたことがありました。このとき、親友が体調を崩して倒れてしまいます。中学の担任は親友を「無礼だ」として叱責。これに、大助が憤りを感じたといいます。
1919年、上京し四谷に住んだ大助は、マルクス主義者の河上肇の著作に触れ、社会問題に目を向けるようになりました。1922年、大助は早稲田第一高等学院に入学しますがわずか1年で中退。日雇い労働者として日々を過ごしました。
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