大正日本の歴史

即位前の昭和天皇を襲った暗殺未遂事件「虎ノ門事件」背景や経緯、その後を元予備校講師がわかりやすく解説

虎ノ門事件の発生

1923年12月27日午前10時35分、摂政宮裕仁親王は第48通常議会の開院式出席のため御召自動車に乗り込み、皇居を後にしました。

皇居を出た御召自動車が港区虎ノ門地区入り、現在の虎ノ門公園付近に差し掛かったころ、沿道の群衆の中にいた難波大助が、警察官の警備船を突破して皇太子が乗った御召自動車に接近します。難波大助はステッキに仕込んでいた散弾銃で裕仁親王を狙撃しました。

銃弾は裕仁親王に命中せず、同乗していた東宮侍従長の入江為守が負傷します。御召自動車はそのまま貴族院に到着し、裕仁親王は開会式に出席しました。

裕仁親王暗殺に失敗した難波大助は、警備中の私服警官によって取り押さえられ、周囲の群衆による袋叩きにあいました。その後、群衆を制止した警察は難波大助を大逆罪の現行犯として逮捕しました。

難波大助が問われた大逆罪とは

戦前に施行されていた旧刑法や改正前の現行刑法には大逆罪という罪名が規定されていました。旧刑法第116条には「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」とあります。

難波大助が行ったのは皇太子である裕仁親王の狙撃であったため、まさしく、大逆罪の対象となりました。大逆罪が適用されたのは全部で4件。中でも虎ノ門事件と幸徳秋水らが問われた大逆事件が有名ですね。

第二次世界大戦前に施行されていた大日本帝国憲法において、天皇は統治権の総覧者と位置づけられ、立法・行政・司法の頂点に立ち、軍を統帥すると定められていました。

天皇や天皇の近親者を狙撃するということは、大日本帝国憲法体制そのものの否定と考えられたため、大逆罪は最も重い刑罰である死刑の対象とされたのでしょう。ちなみに、1947年に現行刑法から大逆罪は削除されていますよ。

虎ノ門事件のその後

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不明 – 毎日新聞社「昭和史第4巻 昭和前史・関東大震災」より。, パブリック・ドメイン, リンクによる

虎ノ門事件の実行犯である難波大助は裁判の結果、有罪とされ死刑判決を受けます。処刑された難波大助の父は、大助の遺体を受け取ることを拒否しました。事件直後、難波作之助は衆議院議員を辞職し、閉門・蟄居。家族もひたすら謹慎しました。虎ノ門事件の影響は難波家だけにとどまらず、当時の総理大臣だった山本権兵衛の辞職に発展します。

実行犯難波大助の裁判と死刑判決

事件前、難波は友人たちに類を及ぼさないため絶交状を送付していました。また、難波はマスコミに対して共産主義の思想にもとづくテロであることを記した趣意書を送付します。これは、単なる精神錯乱者として処分されるのを避けるための措置だったのでしょう。

大審院で難波の裁判が始まりました。難波は明確な目的をもって裕仁親王を狙撃したことが明確であったため、精神錯乱や心神喪失とはみなされません。政府は難波が反省陳述を行えば、罪一等を減じて無期懲役とし事件の幕引きをしようとしましたが、難波はそれに応じません。最終弁論でも難波は自分の行為はあくまでも正しいものだと主張しました。

1924年11月13日、大審院は難波に死刑判決を下します。二日後の11月15日、難波の死刑は市谷刑務所で執行されました。

難波大助の父や関係者のその後

難波大助の父である難波作之進は、事件当日のうちに衆議院に辞表を提出。郷里の山口県に戻って蟄居しました。死刑が執行されたのち、大助の遺体引き取りを打診された作之進は引き取りを拒否。そのため、大助は無縁仏として葬られました。

作之進は自宅の前に青竹を打ち、すべての戸を針金でくくります。門を閉じたのち、作之進は自宅の一室にある三畳間に閉じこもりました。

自宅の門を閉じ、出入りをせずに一室に謹慎することを閉門蟄居といいますが、作之進はそれを実践し謹慎の意を周囲に表し続けたのでしょう。作之助は蟄居のまま食を絶ち、亡くなります。

時の総理大臣山本権兵衛は事件の責任を問って総辞職。警備を担当していた警視総監の湯浅倉平と警備部長の正力松太郎免官となりました。また、難波の地元である山口県の知事は減俸、難波が卒業した小学校の校長は辞職します。

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