戦争へ突入する英独仏
ダンケルクの戦いは、ナチス・ドイツのフランス侵攻に伴って起きた戦いですが、そこに至るまでの流れについて説明していきましょう。戦争の火蓋はまずポーランドで開かれました。
英仏がドイツに宣戦布告
ドイツの政権を握ったヒトラーは、近隣のオーストリアやチェコのズデーテン地方などを併合し、強硬な外交政策を展開しました。その理由はドイツ民族の生存圏を確保するためです。併合された地域にはドイツ系住民が多かったこともありますが、民族自決をスローガンにする政治手法は多くのドイツ人たちの共感を得ることになりました。
ところが英仏(イギリス、フランス)はじめとする西欧諸国は、ドイツの外交政策に対して明らかな及び腰の姿勢で臨みます。ソ連からの共産化の波をドイツで食い止めてほしいという思惑もあったでしょうし、何よりヒトラーがいくら強硬でも、まさか戦争には及ばないだろうという楽観的な考え方があったからです。
ところが1939年9月、楽観視する英仏の思惑をよそにドイツはポーランドへ軍事侵攻を開始したのでした。第二次世界大戦の開幕ベルが鳴ったのです。
すぐさま英仏はドイツに対して宣戦布告し、戦争状態に突入しました。ところが英仏はポーランドを救援するどころか動く気配すらありません。やがて東からはソ連も国境線を越えて侵攻し、結果的にポーランドは2つに分割されてしまいました。
過去の第一次世界大戦で苦しい経験が残る英仏は、ドイツ・フランス国境で圧力さえかけておけば、戦力に不安があるドイツ軍はすぐにポーランドから撤兵するだろうと考えられていたためです。
しかしドイツ軍は撤兵するどころか、瞬く間にポーランドを席巻し、英仏が何もできないまま征服してしまいました。英仏に裏切られたポーランドは亡命政府を樹立し、フランスへ移るのが精一杯だったのです。
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まやかしの戦争
たしかにドイツのポーランド侵攻は世界大戦の幕開けとなる戦いでしたが、この頃はまだ地域紛争という認識が強く、話し合いによって解決されることが最善だと考えられていました。しかし無条件で戦いが終わることはありません。
「ポーランドにおいて、ドイツの自由な行動を認めること。」
これはドイツが出した和平条件ですが、そんなものを英仏が認めるわけがありません。結果的に交渉は決裂し、軍事力による解決しか手段がなくなったのです。こうした交渉が続けられていた間、特に大きな戦いは起こっていません。これを「まやかしの戦争」と呼んでいますね。
英仏とドイツ。どちらも相手の出方がわからないため、探り探りの状況だったといえるでしょう。
しかし海の上では熾烈な戦いが繰り広げられていました。ドイツのUボート(潜水艦)や水上艦艇、機雷などによる通商破壊戦が始まったのです。多くのイギリス商船が撃沈される結果となり、強大な海軍力を持つイギリスといえども対応に苦慮するようになりました。
拡大していく戦争
ポーランド戦後、英仏はおおっぴらに武力を行使する代わりに、経済封鎖でドイツを締め上げようと考えました。経済的に困窮すればドイツは和平に応じるだろうと。しかし、あまり効果はなかったようです。
それどころかドイツは明確に次の目標を見定めようとしていました。当時ドイツは戦争の遂行に不可欠な鉄鉱石の輸入をスウェーデンに頼っていて、重要な積出港がノルウェーのナルヴィクでした。ここをイギリスに抑えられてしまうと兵器の製造に支障をきたしてしまいます。またノルウェーはフィヨルドに代表される良港が多くあり、Uボートの基地としても最善な場所でした。
1940年4月9日、行動を開始したドイツ軍はまず手始めに隣国デンマークを襲い、6時間という短時間のうちに屈服させました。
さらに時を同じくして、海軍と空軍の支援の下にノルウェー主要部への侵攻を開始。激しい海戦が各地で行われるものの抵抗を排除したドイツ軍は優勢に立ちます。
4月29日にノルウェー国王と内閣が脱出してイギリスへ向かったことにより、ドイツの勝利は決定的になりました。その後も抵抗は続きますが、ノルウェーはドイツの支配下に入ることになったのです。
ますます拡大していく戦争。やがて平和を謳歌していたフランスに危機が訪れることを誰も知りません。
ドイツ軍、フランスへ侵攻
Bundesarchiv, Bild 183-L05487 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる
北欧での戦いののち、ついにヒトラーの目は西へ向けられることになりました。英仏軍と直接対峙する時が来たのです。ところがドイツ軍は思わぬ戦略と戦術をもって英仏軍を翻弄したのでした。