フランスの思惑
この戦いの当事者フランスは、戦争に対して非常に楽観的になっていたといえるでしょう。それは政府も国民も同じことでした。
「どうせドイツは攻めてきやしないさ。」誰もがそう思っていたことかも知れません。
なぜなら第一次世界大戦で戦場となったフランスでは、戦いに対するアレルギーがずっと蔓延しており、「戦争はもうこりごり」という雰囲気が醸成されていました。
「それならば、相手が攻めてくる気が起きないほどの壁を作れば良い。」ということで莫大な巨費を投じて造られたのがマジノ線という要塞です。独仏国境沿いに南北322kmもの長さで築造されたといいますから、これは東京~仙台間の距離とほぼ匹敵します。
国費の多くがマジノ線建設に注がれ、国民の間では神格化されていきました。「マジノ線さえあればフランスは大丈夫。マジノ線がきっと守ってくれるはずだ。」と。
さらにドイツ軍よりはるかに戦力が大きいフランス陸軍も拠りどころの一つでした。兵隊の数も戦車の数もドイツより優っているわけで、これだけの巨大戦力を国境線に張り付かせておけば、さしものドイツ軍も攻めては来れないだろうという算段でした。
また20万以上のイギリス遠征軍も援軍として控えていました。しかし、このような頭の固い戦略に依存していたことが、のちに手痛い目に遭う原因となったのです。
ドイツ軍、ベルギーとオランダへ侵攻
Bundesarchiv, Bild 101I-127-0396-13A / Huschke / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる
1940年5月10日。この日はイギリス首相にチャーチルが任命された日でした。ドイツ軍はまず手始めにベルギーとオランダに対して同時攻撃を行いました。これはあくまで陽動作戦で、フランスへ向かう別動隊を支援するためのものです。
ベルギーはまず空爆の洗礼を受け、一瞬のうちに航空部隊が壊滅。またベルギー自慢のエバン・エマール要塞が空挺部隊の攻撃を受けて、わずか24時間で陥落してしまいました。
ベルギー軍は必死の防戦を試み、いくつかの場所で勇敢な反撃をおこなってドイツ軍の攻勢を止めようとします。ようやく英仏連合軍の救援を得たベルギーは防御態勢を整え、アニューという場所でドイツ軍を迎え撃ちました。第二次世界大戦初の大規模戦車戦ともいえるアニューの戦いがそれで、フランスの強力な戦車部隊がかろうじてドイツ軍を阻止することに成功しました。
この戦いでドイツ軍の足が止まったことにより時間的余裕が生まれ、のちのダンケルク撤退戦が成功に導かれたともいわれています。
しかしベルギーの敗勢は覆しようもなく、政府首脳はイギリスへ亡命。残った国王レオポルド3世はドイツに無条件降伏を余儀なくされました。5月28日のことです。
いっぽうオランダは、ロッテルダムが空爆を受けて壊滅したのを契機に戦うことをやめ、ヴィルヘルミナ女王とオランダ政府はイギリスに亡命し、早くも5月15日には降伏しました。
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虚を突かれたフランス
ドイツ軍がベルギーとオランダに侵攻を開始した同じ日、ドイツ=フランス国境でもドイツの機甲部隊が進軍を開始していました。
ベルギー・フランスへ侵攻した部隊を【ドイツ軍本隊】だと思わせ、フランス軍主力を引き付けている間に別動隊が手薄になった国境を突破しようとする作戦でした。
ドイツの機甲部隊が突破しようとしたのは「アルデンヌ森」という森林地帯で、戦車による侵攻が難しいとされていた地域でした。まさかそんな場所からやってくるとは思わないフランス軍は、装備も貧弱で弱い部隊しか配置していなかったのです。
戦車を有効に機動展開させたドイツ軍は、恐るべきスピードでフランス軍の背後に回り込みます。アルデンヌ森はマジノ線が切れる場所にあったため、フランス自慢の要塞群はまったく機能しませんでした。
ドイツ軍機甲部隊はまるで無人の野を進むがごとく進撃していきます。そして英仏軍が気付いた時には、もはや首都パリへ撤退することもできずに進退窮まることになったのです。
5月19日、ドイツ軍の先頭がドーバー海峡に達したことにより、ついに英仏連合軍は包囲されてしまいました。
ダンケルクの戦い~ダイナモ作戦~
こうしてドイツ軍の急進撃によって海岸へ追い詰められた英仏軍。その兵力は35万人という巨大なものでした。しかしドイツとの戦いを継続するためには、何とかして貴重な戦力を撤退させねばなりません。そこではどのような駆け引きが生まれ、どのような思惑があったのでしょうか?
アラスの戦い
追い詰められた英仏軍とはいえ、その戦力はまだ健在でした。5月21日にまずイギリス軍が反撃を開始。アラスにおいて長く伸び切ったドイツ軍の横腹を噛み切ろうとしたのです。
その攻撃をまともに受けたのが、のちに名将といわれるロンメル少将の部隊でした。ドイツ軍よりはるかに頑丈な戦車を押し立てて攻撃してくるイギリス軍に対し、ロンメルはあらゆる火砲を用いて迎撃することに。本来なら対空射撃のために使う対空砲を水平に発射させ、ようやくイギリス軍の攻勢を押しとどめたといいます。
イギリス軍が敗退した後、強力な戦車を持つフランス軍も攻勢を開始しました。予想を超える攻撃の激しさにドイツ軍の防衛線は徐々にほころびを見せ始めます。しかしフランス軍にとって不幸なことに、いくら強力な戦車を持っていたとしても攻撃の連携が取れなければ、ただの散発的な攻撃でしかありません。
やがて空からの空爆と増援を得たドイツ軍は徐々に態勢を建て直し、フランス軍を押し戻すことに成功したのです。しかし「窮鼠猫を噛む」の言葉通り、思わぬ反撃を受けたドイツ軍の行動は慎重となり、この後のダンケルク撤退戦でも積極的な攻撃に移ることはありませんでした。
ダイナモ作戦発動
首相に就任したばかりのチャーチルにとって、フランスが屈服し、多くのイギリス軍将兵たちを失うことはまさに政権にとってピンチでした。だからこそイギリス海軍が立案した撤退作戦ダイナモをすぐさま承認したのです。
英仏軍が包囲された地域にある港はダンケルクただ一つ。まごまごしているとドイツ軍が殺到してきて撤退どころの話ではありません。この港から全ての将兵たちを撤退させるために、あらゆる努力が払われました。
そこから程近いカレーにいたイギリス軍部隊は、ダンケルクに迫るドイツ軍の進撃を遅らせようと最大限の抵抗を試みました。彼らはカレー市街の中心部に立て籠もり、大空襲を幾度も受けたにも関わらず頑張り続け、5月26日までドイツ軍を引き付け続けました。
そして同日、ダイナモ作戦が発動。軍艦、民間船舶、漁船、遊覧船などあらゆる船がダンケルクに集結し、その数は860隻を数えたといいます。