ドイツ軍の不可解な動き
こうした英仏軍のピンチにも関わらず、ドイツ軍側の動きは急速に鈍くなっています。それはなぜか?
一つには、あまりの急進撃のために後続部隊や補給が追い付かずに戦線が伸び切ったこと。そしてアニューの戦いやアラスの戦いにおいて手痛い反撃を蒙ったことにより、まだ大きな戦力を残している英仏軍の攻撃を恐れたこと。などが挙げられるでしょうか。
またドイツ空軍総司令官のゲーリング元帥は、生来見栄っ張りで我の強い人物として知られていますが、「陸軍の力を借りなくても、空軍の力だけでダンケルクの連合軍を撃破できる。」とヒトラーに対して安請け合いしてしまったことが玄以の一つだと考えられています。
5月24日、ついにドイツ軍の進撃はストップし、英仏軍にとって撤退のラストチャンスが訪れたのです。
撤退作戦の成功
Frank Capra (film) – Divide and Conquer (Why We Fight #3) Public Domain (U.S. War Department): https://archive.org/details/DivideAndConquer, パブリック・ドメイン, リンクによる
5月26日、ダンケルクに数多くの駆逐艦や救助船が群れをなし、戦いで疲れ切った多くの兵士たちを撤退させました。翌日は数千名を運んだにすぎませんでしたが、そこから徐々に撤退のペースは上がっていきます。29日には4万7千名もの兵員を船に乗せ、死に物狂いの作戦が続けられました。
その最中にもドイツ空軍の爆撃は激しくなり、兵士や船舶に襲い掛かります。しかし幸運なことに、砂浜に落ちた爆弾の威力は減殺され、小さな船に爆弾を命中させるのは非常に困難なため、思ったより戦果は上がらなかったといいますね。それでも大型船舶や駆逐艦などが少なからず撃沈され、戦闘は激しさを増しました。
そしてイギリス空軍の活躍も見逃せません。撤退を支援するために飛来したスピットファイアやハリケーンなどの戦闘機は、ドイツ爆撃機を迎え撃ち、それらの多くを撃墜する戦果を挙げました。逆にドイツ空軍は近隣に使用可能な飛行場がなく、滞空時間の短いまま戦わざるを得ませんでした。
5月31日に6万8千名が救出され、翌日には6万4千名がダンケルクから撤退しました。その後も作戦終了まで多くの兵士がダンケルクを後にしています。
6月5日、ようやく進撃を開始したドイツ軍はダンケルクに到達しますが、すでに34万名が脱出した後でした。残っていたのは撤退を支援するフランス軍部隊がわずかばかり。
この事態にヒトラーが激怒するのかと思いきや、非常に上機嫌だったとされています。本来イギリスと戦うつもりがなかった彼にとって、イギリス軍を追い出しただけで満足なのであり、目前にはフランスの屈服が迫っていたからなのです。
撤退した英仏軍は戦車や火砲などの大部分を失いますが、貴重な人的資源は残りました。この3年後、彼らは再び英仏海峡を渡ってフランス・ノルマンディーの土を踏みしめることになるのです。
映画「ダンケルク」2017年度版
クリストファー・ノーラン監督の映画版「ダンケルク」です。
ダンケルクの海岸に追い詰められた数10万人もの英仏連合軍に、ドイツの大軍がが迫りつつある状況の下、物語は陸・海・空を舞台に展開されていきます。
海峡の上空ではイギリス空軍のスピットファイアが敵機を迎え撃ち、地上の無防備な兵士たちを守るために空中戦を繰り広げる勇敢さ。
そして海上では軍人ばかりか民間人までも小型船に乗り込み、一人でも多くの味方の命を救うため、時間との戦いの中で危険をも顧みない決死の救出作戦を決行するというストーリーです。
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多くの兵士たちを無事撤退させ、成功に終わったダイナモ作戦ですが、軍や民間を問わず勇気をもって困難に立ち向かった人々の姿はイギリス国民に勇気を与えました。フランスが降伏し、イギリス本土もドイツ空軍による激しい空襲に晒されますが、それでもあきらめずに戦い続け、反攻の芽を見出したのは「ダンケルクの戦い」があったからこそではないでしょうか。