たびたび城主が変わった丸岡城の歴史
丸岡城のある福井県は、戦国時代の頃から激しい戦いが繰り広げられた地域でした。織田氏や朝倉氏、一向一揆などの争奪戦の舞台となり、多くの血が流されました。まずは丸岡城に関する歴史を紐解いていきたいと思います。
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北ノ庄城の支城として造られた丸岡城
現在の福井県は、かつて越前国と呼ばれており、戦国時代には朝倉氏が支配していましたが、織田氏との戦いのあげく滅亡してしまいます。
越前はもともと、浄土真宗本願寺8世の蓮如が吉崎道場を拠点にして布教を広めていた国ですから、門徒(信者)の多かった地域でした。【浄土真宗】は熱狂的な信者に支えられていて、彼らの唱える念仏がひたむきな様子だったことから【一向宗】とも呼ばれていました。
しかし、織田氏の支配に対して抵抗を繰り広げた一向宗門徒は、ついに一揆を起こして越前を占領してしまいます。そこで織田信長は数年後、3万の兵を率いて越前へ侵攻。あっという間に一向一揆を打ち破って多くの門徒を虐殺してしまいました。
越前を平定した信長は、北陸方面軍総司令官に柴田勝家を任命し、北の上杉氏に対して軍を進めることに。その際、勝家が本拠を構えたのが北ノ庄城でした。そして北ノ庄城を支える支城として1576年に丸岡城を築城したのです。丸岡城には養子の勝豊が入りました。
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次々に城主が入れ替わる
1582年、本能寺の変で織田信長が斃れたあと、次の主導権を争うセカンドバトルが羽柴秀吉と柴田勝家の間で起こりました。賤ヶ岳の合戦の結果、勝家は敗れて滅亡。その後には秀吉に味方した丹羽長秀が入りました。丸岡城主には家臣の青山宗勝が入るものの、長秀の死去に伴って独立を果たし、2万石の大名として諸侯に列しています。
やがて1600年の関ヶ原の戦いでは、宗勝は西軍に味方してしまい、あえなく改易処分に。さらに入れ替わりで越前に入ってきたのが徳川家康の実子結城(松平)秀康でした。
ここまでの時期は城主が目まぐるしく変わっていますから、非常にわかりづらいところです。
やがて秀康は68万石の太守にふさわしい福井城を築き、丸岡城には家臣を入れて福井城を支える支城としました。
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有馬氏の代で平穏な時代を迎える
1612年、重臣間での争いに端を発した「越前騒動」によって幕府から目を付けられた越前松平家は、取り潰しこそ免れたものの、外部からお目付け役の本多成重を家老として迎えました。
しかし藩主の松平忠直は非常に問題児で、江戸への参勤を怠ったり、家臣に誅罰を加えるなどやりたい放題。ついに堪忍袋の緒が切れた幕府は、忠直の不行跡を責めて改易処分に処しました。
ところがお目付け役だった成重に対しては何の咎めもなく、福井藩から独立してまんまと丸岡藩主となったのです。
しかし独立を果たした70年後、本多重益の代の時にお家騒動が起こりました。重益が非常に出来が悪く、酒色に溺れて藩政を顧みなかったため、重臣同士で主導権争いが起きたのです。
結果、本多家は改易され、遠く九州からはるばるやって来た有馬清純が藩主として収まることになりました。ちなみに有馬氏は元はキリシタン大名で、地元の農民一揆を抑えられなかったために転封処分として丸岡へ移ってきたのです。
明治維新まで有馬氏が藩主として続きましたが、丸岡は非常に実りが少ない土地で、藩財政はひっ迫するばかり。莫大な借金を抱えることになりましたが、名君と呼ばれた有馬誉純の代で劇的に藩財政が好転します。
なんと誉純は、豪商加島屋に財政再建を委託することで危機を脱したのです。また藩士たちの教育に努め、藩校を解説するなど人材の育成に力を注ぎました。
幾度もの危機を乗り越えた丸岡城
明治となり、廃城令が公布されて全国の城が次々と取り壊しになっていく中、丸岡城も多くの建造物を失いました。ただ天守だけは解体も難しく、利用用途も少ないため残されていました。しかしいずれ解体される運命にあったのは間違いありません。
そんな時、丸岡の町のシンボルともいえる城を守るべく、地元の有志達が協力し合って保護に乗り出します。やがて1901年には地元自治体の丸岡町が買い取って公園化し、1934年には国宝に指定されました。
太平洋戦争の戦災も免れた丸岡城でしたが、思わぬ運命が襲い掛かります。それが1948年に起こった福井大地震でした。まさに丸岡が震源になったのです。天守は倒壊し、石垣は崩れました。