♯5丸岡城のココを見てほしい【坂井市丸岡歴史民俗資料館】
築城400年を記念して作られた歴史資料館で、本多氏や有馬氏など歴代城主ゆかりの武具や調度品、美術品などが収蔵されています。
また丸岡の古地図や城下の模型など、城下町散策の参考になりますし、丸岡の歴史を知るには恰好の場所かも知れません。
丸岡城天守の麓にあり、入館料は丸岡城入城料に含まれています。
丸岡城へのアクセス
※公共交通機関の場合
JR福井駅前京福バス乗り場から「丸岡線」に乗車し約35分ほど。終点「丸岡城」停留所下車すぐ。バスは、30分に1本程度あります。
JR芦原温泉駅前京福バス乗り場から「芦原丸岡永平寺線」に乗車し約20分ほど。「丸岡城」停留所下車すぐ。バスは、日中2時間に1本程度の本数です。
JR北陸本線丸岡駅が最寄り駅ですが、4.5キロも離れていますし、日中のバスも3本しか運行していないためタクシーの利用をおすすめします。
※マイカー利用の場合
北陸自動車道丸岡インターから約5分ほど。国道8号線、一本田中第2交差点から東方へ向かって約2分で到着です。
お静の人柱伝説
柴田勝豊が丸岡城を築城する際、天守の石垣を築こうとすると何度やっても崩れてしまうため、困ったあげく人柱を入れることになりました。
そこで自ら望んで人柱になったのが、お静という女性でした。夫に先立たれて子供を抱えた貧しい生活を送っており、我が子の将来のために勝豊に訴え出たのです。
「私でよければ喜んで人柱になりましょう。ただ一つお願いがあります。私がいなくなれば、この子が不憫になってしまう。どうかわが子を武士に取り立てて頂けないでしょうか。」
勝豊は返事一つで承知しました。しかし、お静が人柱になった後、その願いが叶えられることはありませんでした。
なぜなら勝豊は近江の長浜城へ転封してしまい、お静の子供を武士にするという約束が立ち消えになってしまったからです。
それ以来、田植えの頃になると、城の堀があふれんばかりに雨が降り、人々は「お静の涙雨」と呼んだそう。今でも丸岡祭りの時期には雨天の日が多く、人々はこの伝説を思い出すのです。
霞ヶ城の由来
丸岡城は、別名「霞ヶ城(かすみがじょう)」とも呼ばれています。
その昔、のちの継体天皇となる大迹皇子(おほどおうじ)が麻留古乎加(まるこのか)という場所に住んでおられたそうです。第二皇子の椀子(まねこ)皇子が生まれた時、御胎衣(いわゆる胎盤)を丸岡城のある場所の南へ埋められたとのこと。また椀子皇子が亡くなった際にもその場所へ葬ったとされていますね。
ちなみに地名の麻留は「丸」、乎加は丘陵の「岡」。つまり丸い岡のある土地ということで現在の丸岡の地名になったとされているのです。また、この皇子の名前から「まるおか」となったという説もあります。
ところで椀子皇子は亡くなったのち、大蛇に姿を変えたとされていて、丸岡城を守る守護神となりました。一向一揆が城を襲うこともたびたびあり、しかしその度に、天守閣横にある井戸から大蛇が現れて、霞をかけて城の危機を救ったといわれています。この伝説が丸岡城の別名「霞ヶ城」の云われなんだそうですね。
質素で素朴なところが魅力の丸岡城
白亜の大天守を持つ姫路城や、黒くて豪壮な松本城などと比べると、丸岡城は非常にこじんまりとしていて素朴な雰囲気です。しかし、そんな質素なところが良いと評価される方もいらっしゃいますし、奥ゆかしいところが好きな方も多いですね。桜の季節や紅葉の時期、また雪に映える丸岡城を堪能する楽しみもあります。ぜひ一度訪れて頂いて、その魅力を探してみて下さいね。
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