浄土宗の開祖、法然
平安時代末期、法然は現在の岡山県に当たる美作国で生まれます。9歳のとき父をなくし、母方の縁者を頼って出家しました。その後、法然は比叡山に登り仏教の修行に励みます。比叡山を降りた法然は、「選択本願念仏集」を著して浄土宗を開きました。比叡山や奈良の興福寺などは法然や弟子たちを非難。法然や親鸞は流罪とされてしまいました。
智慧第一の法然房
1133年、法然は現在の岡山県北部に当たる美作国の武士、漆間時国の子として生まれました。漆間氏は地方の治安・警察を担う押領使という役職についていた武士です。
あるとき、近隣の武士との争いとなり、父親が夜討ちをかけられて殺害されてしまいました。父親は法然にあだ討ちしないよう命じたと言います。法然は漆間氏の菩提を弔っていたお寺に引き取られ僧侶としての修行が始まりました。
やがて、法然は仏教の大学ともいえる比叡山で修行。たくさんの教えを吸収することになります。法然という名を授かったのは比叡山での修行時代でした。修行を進めた法然は比叡山でも指折りの僧侶となり、智慧第一の法然房とよばれるほどになります。
1147年、法然は比叡山のトップである天台座主から受戒され僧侶としての名声を高めました。
浄土宗の開宗
1175年、法然は一冊の本と出合いました。中国の善導が著した「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」です。この本の内容に影響を受けた法然は、南無阿弥陀仏という念仏をひたすら唱える浄土宗を開きました。
法然は比叡山を降り、浄土宗の教えを説きます。このとき、法然が移り住んで布教活動を行った場所に浄土宗の総本山、知恩院が建てられました。
1198年、法然は関白九条兼実の求めに応じて「選択本願念仏集」を著します。法然はこの本の中で浄土宗についてまとめました。
法然は、今日(平安時代末期から鎌倉初期にかけて)は仏教の教えのみが残り、悟りに入る人がいない末法の世であり、末法の世にふさわしいのは、ひたすら阿弥陀仏の名を唱える称名念仏であると説きます。
様々な修行を通じて悟りを開くことよりも、阿弥陀仏の名をひたすら唱えることで極楽浄土への往生を願うべきだと主張しました。浄土宗の開宗は1175年ですが「選択本願念仏集」によって浄土宗の理論は確立したと言ってよいでしょう。
承元の法難と「摧邪輪」
法然の教えは、数々の修行を経るからこそ悟りを開くことが出来ると考えていた当時の仏教者から大きな反発を受けます。法然の出身母体である比叡山延暦寺や奈良の興福寺の僧兵たちは法然と弟子たちを激しく批判しました。
法然に対する比叡山や興福寺の批判を承元の法難といいます。比叡山や興福寺の訴えに加え、法然の弟子が後鳥羽上皇不在中の御所に勝手に入る事件がおき、後鳥羽上皇が激怒。御所に入った二人の僧を死罪、師である法然や弟子にの親鸞ら7名を各地に追放しました。
また、念仏をひたすら唱えるべきと主張して法然が著した「選択本願念仏集」に対し、華厳宗の高弁は「摧邪輪(さいじゃりん)」を著して、念仏のみを唱えるだけでは成仏できず、法然の主張は大乗仏教における悟りを得たいという心(発菩提心)が欠けているとして激しく非難しました。
それでも、法然が唱えた浄土宗は法然の弟子たちによって世に広められます。
浄土宗のポイント
法然が開いた浄土宗では、南無阿弥陀仏と念仏を唱えると極楽浄土に往生できると説きます。仏教における浄土とはどのような場所のことなのでしょうか。また、浄土の主とされる浄土宗の本尊の阿弥陀如来はどのような仏なのでしょう。法然が強く主張した「南無阿弥陀仏」とひたすら唱える称名念仏なども併せて解説します。
浄土とは
浄土とは、仏教において仏や菩薩が住む清浄な世界のことを指す言葉で、現世を表す穢土(えど)と対を成す言葉です。仏の住む世界には阿弥陀如来が住む西方極楽浄土や薬師如来が住む東方浄瑠璃浄土などいくつもの浄土があると考えられました。
浄土は清らかで汚れがない仏の国だといいかえることができるでしょう。浄土宗において重視されるのは阿弥陀如来が住む西方極楽浄土です。娯楽浄土は住み心地の良い世界とされ、一切の苦がない理想の世界。
法然はひたすら阿弥陀如来を信仰し、南無阿弥陀仏と唱え続けることによって穢土である現世に住む人々も、死後は阿弥陀如来が支配する西方極楽浄土に生まれ変わることができると説きました。
平安時代から鎌倉時代の初期は戦乱が続き、多くの民衆にとって現世で生きるのが大変な時代でした。だからこそ、この時代に生きた人々は極楽浄土へのあこがれが人一倍強かったのかもしれません。
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