日本の歴史鎌倉時代

智慧第一といわれた名僧法然が開いた「浄土宗」を元予備校講師がわかりやすく解説

徳川将軍家による浄土宗信仰

徳川家康は葵の紋所の旗のほかに、「厭離穢土 欣求浄土」の旗を本陣に掲げさせました。「厭離穢土(おんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)」とは、浄土教の用語で、汚れた国土を離れ、阿弥陀如来の支配する極楽浄土への往生を切に願うという意味合いの言葉です。

家康がこの旗印を用いるようになったきっかけは、桶狭間合戦の直後の出来事にありました。

桶狭間で今川義元が討ち取られたとき、松平元康(のちの徳川家康)は今川軍の敗走に巻き込まれ、三河国大樹寺に逃げ込みます。家康は大樹寺にあった松平家の先祖の墓の前で自害をはかりました。

その時、大樹寺の住職が松平元康に戦国の世の穢れを払い、この世に極楽浄土を作るために努力すべきだと説き切腹を思いとどまらせます。天下統一後、家康は浄土宗を厚く保護しました。

わかりやすい教えが人々の心をつかんだ

image by PIXTA / 41036209

法然が説いた専修念仏は、ただひたすらに西方極楽浄土の主である阿弥陀仏の名を唱え続けることで、誰でも極楽往生できるというわかりやすい教えでした。厳しい修行を経た物だけが仏になり極楽に往生できると考えらえていたこの時代の人々にとって、法然の浄土宗はわかりやすく救いを見出しやすい宗教だったことでしょう。

1 2 3
Share: