日本の歴史鎌倉時代

智慧第一といわれた名僧法然が開いた「浄土宗」を元予備校講師がわかりやすく解説

阿弥陀仏・阿弥陀如来とは

阿弥陀如来は大乗仏教の如来の一つです。如来とは、釈迦や諸仏に与えられる称号のこと。阿弥陀仏はサンスクリット語でアミターバ、またはアミターユスといいます。

この言葉の意味は、量り知れない光を持つ者(無量光仏)、量り知れない寿命を持つ者(無量寿仏)。仏典では西方極楽浄土の主とされます。

現世の人々が、死後、阿弥陀仏に導かれ極楽に往くことを極楽往生と言いました。浄土宗において阿弥陀仏は最も優れた仏だとされます。

一般に、阿弥陀仏は向かって右側に観音菩薩を、左側に勢至菩薩を従えた姿で表現されました。この三つの仏は「阿弥陀三尊」といいます。人が死んだとき、その人の生前の行動に応じて阿弥陀三尊は様々な形で人々を迎えに来るとされました。

称名念仏とは

称名念仏とは、南無阿弥陀仏と口に出して唱える(称名)こと。南無は、礼拝や帰依を意味する言葉。したがって、南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏に帰依しますという宣言になりますね。

阿弥陀仏は自らの名を唱えるものを、西方浄土に往生させると信じられました。特に、法然は南無阿弥陀仏とひたすら称名念仏を続ける、専修念仏の教えを説きます。

法然は南無阿弥陀仏と阿弥陀仏の名を唱えることで、善人も悪人も、老若男女問わずすべての人々が阿弥陀仏によって極楽浄土に導かれると説きました。

専修念仏をつづけた人が臨終を迎えるとき、阿弥陀仏は脇侍である観音菩薩や勢至菩薩など極楽の諸仏を伴って現れ、念仏者を来迎し極楽浄土に往生させます。

法然の教えはそれまでの仏教に比べるととても理解しやすいもので、鎌倉時代以降も多くの信者を獲得しました。

法然の死とその後の浄土宗

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1207年、法然は承元の法難により四国に流されましたが、その年の暮れには赦免されます。1212年、法然は京都東山の大谷で死去しました。その後、法然の教えを受け継いだ弟子のうち、親鸞は浄土真宗を起こします。浄土宗の信仰は鎌倉時代・室町時代を通じて続き、江戸幕府を開いた徳川家康は浄土宗を手厚く保護しました。

法然の死

1207年、後鳥羽上皇の怒りを買った法然と弟子たちは各地に流刑となりました。法然は四国の土佐に流罪となります。元関白の九条兼実は法然を庇護し、法然の流刑先を自分の影響下にある讃岐国に変更させました。

この時、法然は75歳になっていましたが讃岐国で積極的に布教をおこないます。1207年12月、法然は赦免され現在の大阪府にあたる摂津国豊島郡に滞在しました。

しかし、京都にはいる許可まではおりません。法然が京都に戻ることができたのは、1211年の11月のことでした。

年が明けて、1212年2月、法然は京都東山大谷で死去しました。当時としてはかなり長命である78歳で生涯を終えます。法然の法灯や宗旨は多くの弟子たちや法然を慕って在家信者となった貴族や武士、一般大衆に引き継がれました。

親鸞が開いた浄土真宗

法然の弟子でもっとも有名なのは親鸞でしょう。親鸞の生涯について、詳細を知るための資料が少ないため正確なことはよくわかっていません。しかし、法然の弟子の中で最も重要な位置を占めていたことは間違いないでしょう。

親鸞は比叡山で修業したのち、法然の専修念仏の教えに触れ、法然の弟子として入門しました。1207年の承元の法難の時、親鸞は法然とは全く別の土地である越後国に流されます。

配流の日々を送っていた親鸞が赦免され配流を解かれたのは1211年の11月。皇道の自由を得た親鸞は師である法然に会うために京都に向かおうと考えました。

しかし、親鸞は越後の雪に阻まれ、法然と会うことができません。結局、親鸞は法然の死に目に会うことができませんでした。法然の死後、親鸞は法然の教えを発展させ浄土真宗を開きます。

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