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20世紀最凶の独裁者「ヨシフ・スターリン」の生涯について解説!

アメリカと冷戦を繰り広げたソ連。 社会主義という労働者に優しい国づくりをしようとしてきたさなか、政権を握ったのがスターリンでした。スターリンはソ連を恐怖のどん底に陥れた大粛清を行うのですが、果たしてスターリンはどのようにしてソ連の政治家のトップにまで上り詰めたのでしょうか? 今回はそんなスターリンの生涯について注目していきたいと思います。

スターリンが権力を握るまで

Stalin Museum Batumi.jpg
Ephraim Stillberg投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

ソ連の独裁者となったスターリンは1878年 ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリとして、ロシア帝国の支配下にあったグルジア(ジョージア)のゴリに生まれました。

ちなみにスターリンという名前はロシア語で「鉄の人」という意のペンネームであり、本名はヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリというものだったそうです。

父であるヴィッサリオン・ジュガシヴィリは靴職人として市民の生活を送っており、その生活はお世辞にも良いものとは言えるものではありませんでした。さらに、父はアルコール依存症を患っておりスターリンは度々暴力を受け、さらに7歳の時には天然痘を患い、12歳の時には馬車に轢かれて写真にも残る大怪我を負うなど悲惨な少年でした。

しかし、スターリンは正教会の勧めもあり神学校に入学。スターリンは熱心に勉学に励んだそうですが、そんな折に共産主義という考え方にも触れていくようになっていき、そしてその考えがその後の彼の人生はおろか、出身のロシアの歴史を大きく変えることになっていくのでした。

革命家への転身

神学校に通っていたスターリンが共産主義に触れたことによって宗教に対して疑問視していくようになり、スターリンは正教会の教えに歯向かうなど問題行為が見受けられるようになっていきそして最終的には司祭になる直前に神学校を退学。司祭の道を絶たれたスターリンは気象台の局員の仕事を行いながらロシア社会民主労働者党の組織に参加していくようになります。

スターリンはここで共産主義の活動を行なっていくようになっていき、スターリンは労働者のストライキを指揮して企業や政府に反抗する態度を見せ始めたことによって最終的には荒野の大地であったシベリアに3年間追放されることになりました。

ロシアの転換期とスターリンの転換期

シベリアに流されたスターリンでしたが、この頃からロシアでは苦境に立たされる事件が次々と起こるようなります。1904年から始まった日露戦争においてロシアは苦戦。日本海海戦の完敗や、旅順の陥落したことによってロシアは日本に講和。さらに日露戦争の負担が民衆に重くのしかかったことが原因となって1905年に血の日曜日事件が勃発してこの一連の出来事はロシア第一革命の引き金となる出来事となりました。

スターリンはこの頃シベリアから現アゼルバイジャンのバクーに戻りましたが、スターリンはこのロシア第一革命の時にはボリシェビキの民兵を指揮してゲリラ戦を展開。さらにスターリンは銀行強盗などの非合法的な資金調達を行いこの暴動を継続しようと企んでいました。

そんな折にスターリンはエカテリーナ・スワニーゼという女性と結婚。スターリンはこのスワニーゼを深く愛し子供を設けましたが、その子供を出産した直後チフスにかかり病死。

スターリンはこの報告を聞いた後呆然として友人に対し「人間に対する私の最後の温かい感情は、彼女の死とともに消え失せた」と語るほどスターリンの人生に深い影響を与える出来事となったのです。

シベリアへの流刑

家庭的な不幸がありながらもスターリンは共産主義の活動を続けていき、1907年にロンドンでロシア社会民主労働党第5回大会にレーニンと共に出席。この大会でスターリンは最大の政敵となるレフ・トロツキーと初めて出会うことになりました。スターリンあった直後からトロツキーを嫌うようになりこの頃から敵意を持っていたとされています。

スターリンはこの大会の直後にトビリシという都市の帝国銀行を襲撃し25万ルーブルという大金を強奪。この出来事によって革命の主導者であったレーニンの信頼を得ることになりますが、この出来事は一般民衆はおろか社会主義者にも非難され、彼の活動に影響を与える結果となりました。

スターリンは懲りずに銀行強盗などの反社会的行動を続けていましたが、1908年に警察に逮捕され2年間のシベリア流刑が宣告。直後にスターリンは脱出しましたが再び逮捕され2度目のシベリア流刑を受けることになります。

スターリンは流刑から釈放されるとレーニンからボリシェヴィキ党(ロシア共産党の前身)の中央委員に任命。機関紙であるプラウダの管理を任されるようになりますが、非合法活動を続けていたせいで3度目の逮捕・流刑を受けてしまい再びシベリアに赴くことになります。

ロシア革命とスターリン

スターリンが3度目のシベリア流刑から解放された少し前、ロシアでは第一次世界大戦の苦戦や民衆への重い負担などが原因で二月革命が勃発。この革命のおかげで300年続いたロマノフ朝が滅亡し、ロシアでは臨時政府が打ち立てられることになります。

スターリンはのちに片腕となるモロトフとともにロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに戻り、この臨時政府を支持する動きを見せますが主導者であるレーニンが臨時政府を打倒する四月テーゼを発表したお陰でスターリンは臨時政府の打倒を決意。臨時政府はボリシェビキを倒そうとプラウダの本部に襲撃しましたが、とレーニンはフィンランドに落ち延び、その支援を行ったスターリンはボリシェビキの代理の指導者として動き出します。

レーニンはフィンランドからスイスへと亡命。ドイツの支援も借りてロシアに戻り臨時政府を打倒してついにボリシェビキがロシア全土を征服。5年後の1922年には臨時政府を完全に打倒してソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の建国を宣言したのでした。

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