社会事業
スターリンのまぁまぁいいところに社会事業の手厚さがありました。
スターリン時代には政府の下で平等な教育を受ける権利があたえられこれまで虐げられてきた女性に対しても手厚いサポートを与えていました。これによりソ連内での識字率は大幅に上昇。さらに病気もかかりにくくなり平均寿命も10年ほど伸びるなどの成果もあげています。
また、後述する第二次世界大戦において男性が壊滅的なダメージを受けると男性の代わりに女性が社会進出するようになり、男女平等の理念が広まることになりました。
スターリンと第二次世界大戦
スターリンは第二次世界大戦という一大戦争をうまく乗り切り戦後には超大国としてアメリカとタメを張れる国にまでになりました。
次はそんなソ連がどのようにして第二次世界大戦を渡り歩いていったのかについて見ていきましょう。
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第二次世界大戦初期のソ連
スターリンが大粛清している間に中央ヨーロッパではドイツでヒトラー率いるナチス党が勢力を拡大。1933年に首相になるとドイツの全ての権限が与えられ事実上の独裁体制に入りました。
さらにヒトラーは東に向かって領土を拡大。そして1939年にはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が幕を開けたのです。
しかしスターリンは演説でドイツとの間に結ばれた独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)の締結を表明。ソ連とドイツは協定に基づきポーランドを東西分割してこれを併合しました。
またソ連もどさくさに紛れて領土を拡大。バルト三国を併合し、さらに冬戦争にてフィンランドにも侵攻。こうして着実に領土を拡大したソ連でしたが、スターリンに強大な試練が待ち受けていたのです。
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独ソ戦の開始
1941年6月22日。この日ドイツ軍はいきなりソ連領内に侵攻。赤軍大粛清の後遺症がまだ癒えない赤軍にドイツ軍に対して太刀打ちできるとは思えず次々と領土を取られる始末でした。
ドイツ軍は100万人規模のソ連兵を捕虜にし、モスクワ近郊にまで迫る勢い。しかし、スターリンはソ連をなんとしてでも守るためにソ連国防人民委員令第227号を発令。死にものぐるいで守りぬいた結果スターリングラードでの勝利から始まりソ連の勝利が見え始めていきました。
そして1943年に入るとソ連は反攻を開始。バグラチオン作戦においてソ連の前線をポーランドにまで戻し、1945年にベルリンを占領して独ソ戦はソ連の勝利で終わりました。
ソ連国防人民委員令第227号
ソ連における一番有名な命令
いわゆる「一歩も下がるな」という印象深いフレーズで有名だが、この命令によってソ連の部隊には後退禁止命令が出され、後退したものは軍法会議にかけられ銃殺されるか、懲罰部隊に組み入れられ強制的に前線で戦わせるか、督戦隊によって殺されるかのどれかとなりました。