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20世紀最凶の独裁者「ヨシフ・スターリン」の生涯について解説!

権力の掌握

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こうしてボリシェヴィキによる革命によりソビエト連邦が成立しましたが、その成立の最中からスターリンは権力者への地盤を確実に積み上げていくようになります。

つぎはそんなスターリンがどのようにして権力者へとのし上がっていったのかを見ていきましょう。

権力掌握への道その1【官僚組織の掌握】

スターリンは軍事的センスはほとんどなく、その代わり事務作業を非常に得意としていました。スターリンはこの状況をうまく利用して書記長というポストに就任しました。

これは他の革命家からはあまり警戒されていませんでしたが、この書記長は議事録やその会議での内容を全て閲覧する権利があり、スターリンはこの議事録に載っている失言などを利用して弱みを握り(例:カリーニン)、事務作業で見くびられている間に自分の腹心などを要職につけるなど着実に権力を握り始めたのでした。

権力掌握への道その2【レーニンの死】

こうして着実に権力を握り始めていったスターリンでしたが、1922年に入るとレーニンが脳梗塞にて倒れる事件が起きます。レーニンはジリジリと衰弱状態となり1923年に入ると言葉も喋れなくなるまで重症化していました。

この当時、レーニンの跡を継ぐ人はトロツキーかスターリンと言われていましたが、レーニンはスターリンの恐ろしさを感知していたそうで遺言の中で「スターリンはあまりに粗暴過ぎる。この欠点は、われわれ共産主義者の仲間うちやその交際の中では我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢ならないものとなる」「背信的なスターリンを指導者にしてはならない」という言葉を載せていました。

しかし、レーニンが亡くなるとレーニンの願いとは違う方向に行き、スターリンが官僚ポストにいたことが強みとなりトロツキーをソ連から追放。こうしてスターリンが全ての権力を握る時代が訪れたのでした。

スターリンの政策

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スターリンはレーニンの死後トロツキーの排除などもあって権力を握りましたが、果たしてスターリンはソ連をどのように動かしていったのでしょうか?次はスターリンが行った政策について見ていきたいと思います。

 

大粛清

スターリンと聞かれてまず最初に思いつくのがスターリンによる大粛清だと思います。

スターリンは権力を握りましたが、それでも自分に反対する勢力をどうしても抹殺する必要があるとして党内の反革命分子という形で政敵の抹殺を開始しました。

1934年から始まったこの大粛清はまずレニングラードの共産党関係者が5000人ほど逮捕され、強制収容所へ連行されカーメネフら共産党の重鎮も合同本部陰謀事件を企んだとして逮捕され1936年に始まった見世物裁判である第一次モスクワ裁判にかけて銃殺刑とし、その周りの人たちはシベリアに流刑としました。

しかし、スターリンの大粛清はここまでには止まらず、この第一次モスクワ裁判では赤軍大粛清という形で軍部の大量殺戮を開始。1937年には赤いナポレオンと呼ばれたトゥハチェフスキー元帥を始めソ連の元帥5人のうち3名、軍の司令官級15人のうち13人、軍団長級85人のうち62人、師団長級195人中110人、旅団長級406人中220人、大佐級も4分の3が殺され、大佐以上の軍人の65%が粛清されました。

さらに一般の民衆までも『人民の敵』として大粛清の標的となり、一説には100万人以上迫害を受けたとされています。

第一次五ヵ年計画

スターリンはこれまでの農業国であったロシアの大地を変えるために農業は機械化、そしてロシア内戦によって破壊された工業の復活を目指して五カ年計画を実行するに至りました。

スターリンはソ連の人民を無理矢理コルホーズに移住させ、効率的に農業を行うことに変更。さらにスターリンは工業重視であったため、農業は軽く見られてしまいこの集団農場は大失敗。最終的にはウクライナにおいて一大飢饉が起こり300万人もの人々が餓死したとされています。

その一方で工業化は着実に進み1929年の世界恐慌も相まって世界第2位の工業国にまでの仕上がりました。これによりスターリンはこの工業国の達成を共産主義の勝利だとして徹底的にプロパガンダを発表しソ連の優越性を示していたのです。

しかし、その裏には集団農場でクラーク(富農)と言われた人々がシベリアで強制労働させられたことの上に成り立っているものでもありました。

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