平常貴族たちの唐への道のり
732年8月17日、この日は10人の男たちに、15年ぶりとなる特別な任務が命じられました。特別な任務、それは遣唐使として唐に渡ること。大使に任命されたのは、多治比広成(たじひひろなり)、副使は中臣名代(なかとみのなしろ)。判官には田口養年富(たぐちのやねふ)、紀馬主(きのうまぬし)、秦朝元(はたのちょうげん)、そして平群広成(へぐりのひろなり)の4名。さらに同じく4名の録事がそれぞれ命を受けました。
遣唐使船に乗った人々
15年ぶりとなる遣唐使の派遣。これを聞いた平城京の貴族たちは、どのような反応を示したのでしょうか。おそらく、すでに高い位を得て宮廷内での地位を築いている者たちは、生命の危険をおかしてまで唐に派遣されることを恐れたと思われます。反対に、宮廷内での地位に不満を抱いている者たちは、遣唐使となって多額の報酬を得たり、帰国後の出世を夢見て、十年、二十年に一度のこのチャンスを得ようと、自ら進んで希望したことでしょう。先に任じられた10名のもとには、唐への派遣を希望する役人たちが日ごと交渉をしに訪れたと思われます。
また、遣唐使船に乗った人々は貴族だけではありません。彼らの職業はバラエティに富んでいました。音声生と呼ばれる楽師、玉造りの職人、金細工師、鋳物師、木工職人、医師や神主、船の出発の日を占う占い師、天文の観測をおこなう陰陽師、海賊の襲撃に備えた射手、唐語・新羅語・奄美などの言葉を通訳する者。そして船を動かす船員たち、総勢594名が4隻の船に分かれて乗り込みました。
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遣唐使の母の思い
遣唐使として唐に渡れば、帰国後の出世は約束されたようなものでした。そんな遣唐使に自分の息子が選ばれたとき、母親はどのような思いを抱いたのでしょうか。『万葉集』には、このとき船に乗っていた594名のうちの一人の母が詠んだ歌がのっています。
秋萩を 妻問ふ鹿こそ 独り子を 持たりと言へ
鹿子(かこ)じもの 吾が独り子の 草枕 旅にし行けば
竹玉を 繁に貫き垂り 斎瓮(いはひへ)に 木綿取り垂(し)でて
斎(いは)ひつつ 吾が思ふ吾子(あご) ま幸くありこそ(1790)〈反歌〉 旅人の宿りせむ野に霜降らば吾が子羽ぐくめ天の鶴群(たづむら)(1791)
一匹しか子どもを持たない鹿と同じように、私の大切な一人息子。その息子が旅に出るので、竹の玉をいっぱい通して垂らして祈る。清らかな甕に木綿を垂らして祈る。物忌みをして祈る。私の大切な子よ、無事であれ。
遣唐使が泊まる場所に霜がおりるなら、私の子をその羽で包んで温めておくれ、天高く飛ぶ鶴たちよ。
自分の大切な一人息子が遣唐使として海を渡ってはるか遠い中国に派遣されるという、心配が尽きない母の思いがよく表現されています。海の旅でさえ、大陸の旅でさえ、寒い思いをさえしてほしくない、どうか無事でいてほしいと祈る姿は、現代の母親と変わりありません。
唐にたどり着いた遣唐使たち
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こうして、唐で多くのことを学びたいという大志を抱いた594名を乗せた4艘の船は、733年4月3日、難波の津(現在の大阪)を出航しました。船は五島列島を経由し、東シナ海を横切り、4か月かけて蘇州に到着。そこからは陸路や運河を利用し、長安、そして当時皇帝の滞在先であった洛陽を目指しました。4艘の船は1つも欠けることなく、唐にたどり着いたのです。
遣唐使たちの唐での過ごし方
年内に無事到着した遣唐使一行は、おそらく734年の新年の朝賀に参列したことでしょう。そして、新年の挨拶を済ませた使節団たちは、そこからさらに4か月後、唐の玄宗皇帝に拝謁し、日本からの奉書や朝貢の品々を渡すことができました。
大命を果たした遣唐使たちは、帰国までの間、思い思いの時間を過ごしたと思われます。ある者は中国の街並みや施設を見学しに行き、公的な命令を受けた物品の買い付け、および私的な買い物にも奔走しました。
またある者は日本に招きたい者と交渉したことでしょう。このとき派遣された遣唐使船は、唐楽に秀でた人物を多く連れて帰っています。当時の唐は芸術を愛した玄宗皇帝のもと新しい唐楽の文化が興っていました。「日本ではまだ誰もその音色を聴いたことがなく、その華やかな舞を見たこともない。日本でも豊かな文化を育てるために教師として来てください。」と必死にヘッドハンティングをした遣唐使たちの姿が思い浮かびます。
また、この遣唐使船で一緒に日本に帰ってきたのが、日本史の教科書でも有名な吉備真備(きびのまきび)です。彼は先に遣唐使として唐に入り、唐での生活はすでに20年近く経っていました。そんな真備が一緒に帰ることになったのですから、きっと中国事情について詳しく聞いたり、故郷の話に花を咲かせた時間もあったことでしょう。
唐からの旅立ち
こうして唐での全日程を無事終了させた一行は、734年10月に蘇州を出発しました。約1年半滞在した中国を離れ、とうとう日本に帰ります。唐での買い付け品や日本へ招く人、行きよりもかなり多くの荷物を載せた4艘の船のうち、平群広成は115人が乗る第3船を指揮することになりました。
『万葉集』の歌にもあったように、帰りを待つ家族のいる114名を率いる責任者として、船員たちを無事に日本に、家族のもとへ帰してあげなければならない、そんな重い責任がのしかかっていたことでしょう。しかし、そんな平群の思いもむなしく、このとき彼らを乗せた船を悪風が襲います。
悪風にさらわれた遣唐使船
悪風は、日本に向かって東に進みたい船を、強引に南西に推し進めました。当時の造船、操船技術ではどうすることもできなかったでしょう。それでも、平群が指揮する第3船は、嵐がおさまるとなんとか陸地にたどり着きました。海の藻屑とならずに済んだ…そんな安堵感に包まれたのもつかの間、彼の目に映ったのは、故郷の奈良でも、中国にたどり着いた時にもおそらく見たことのない密林の景色だったことでしょう。