奈良時代日本の歴史

遣唐使史上最も苛酷な旅を経験した男「平群広成」の6年間を歴史マニアが徹底解説

漂着した遣唐使船の悲劇

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密林の生い茂る土地にたどり着いた第3船。船を指揮する平群は、ここがどこなのかを確認する必要がありました。船には唐語、新羅語、奄美語の通訳者が乗っていましたが、どの言葉も通じません。平群の不安は大きなものになっていたと思います。『続日本紀』によると、第3船がたどり着いたのは、崑崙(こんろん)という国でした。平群たちの乗る船は、今のベトナムの海岸線のどこかに流れ着いたのでした。ここでどのような出来事が起きたのか、『続日本紀』の記述をたどっていきましょう。

唐の歴史を記した『旧唐書』の南蛮伝には、林邑(りんゆう)国、すなわちインドシナ半島のメコン川下流域よりさらに南に「崑崙」と呼ばれる地域が存在していると書かれています。

遣唐使船をおそった悲劇 賊兵の襲撃

有賊兵来囲、遂被拘執。船人、或被殺、或迸散。

言葉の通じない未知の土地に漂着した遣唐使船、彼らに悲劇が襲いかかります。それは、賊兵の襲撃でした。船員と現地民と間に、何らかの軋轢があったのかもしれません。もしくは遣唐使船が積んだ荷物は、唐の皇帝からの贈り物や唐での買い付け品など、国家財政を傾けるほどのものだったため、それが狙われた可能性もあります。

遣唐使船は、海賊対策を兼ねて「射手(しゃしゅ)」も同乗していました。そのため、もしかしたら賊兵に襲われたときにある程度の戦闘も起こったかもしれません。広成たちの船がなぜ襲われたのか、正確な理由は分かりませんが、確かに船は何者かに襲われ、20名前後の遣唐使たちが、殺され、あるいは逃亡して行方不明になってしまったのです。

遣唐使船をおそった悲劇 「瘴」という病

自余九十余人、著瘴死亡。

第3船に襲いかかった悲劇はこれだけではありませんでした。船員たちの間で熱病が蔓延したのです。「瘴」という病、これはマラリアと考えられており、なんと90名ほどの船員が命を落とします。唐からの帰国の途中で嵐に遭い、戦闘を経験し、心身ともに疲弊した状態だった船員たちは、免疫のないマラリアにかかりやすかったのかもしれません。短期間のうちに、原因不明の高熱で船員たちが次々に命を落としていくその光景は、まさに地獄だったでしょう。115名いた遣唐使たちは、ここでおよそ80%が命を落としたことになります。

悲劇の末に生き残った遣唐使たち

広成等四人、僅免死、得見崑崙王。

賊兵からの襲撃と熱病という度重なる悲劇をまぬがれ生き残ったのは、平群広成を含めわずか4名でした。日本から唐、そして崑崙までの旅路をともにしてきた111名の仲間を失った4人は、どのような心境で日々を過ごしたのか、我々には想像もできません。

彼らはなんとか崑崙の王様に謁見したものの、わずかな食料のみで、よくない場所に幽閉されてしまいます。天皇の命を受けた日本の使節といえど、異国の地においてそれは彼らを守る盾とはなりませんでした。もしかしたら、崑崙で戦闘状態になったこと、熱病に集団感染して多くの命を失った船の生き残りということで、警戒されたのかもしれません。

漂着した遣唐使船を救え!様々な救いの手

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操船技術のつたない時代、無惨にも海に飲み込まれた船や漂着する船もめずらしくはありませんでした。こうした船は、忘れ去られてしまうのかというと、そうではありません。平群らについても、国を超え、さまざまな人が漂着した遣唐使船の救出のために動き出していました。

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