奈良時代日本の歴史

遣唐使史上最も苛酷な旅を経験した男「平群広成」の6年間を歴史マニアが徹底解説

救世主その1 玄宗皇帝

至七年、有唐国欽州熟崑崙到彼。便被偸載出来、既帰唐国。

735年、失意の中幽閉されていた4人に、一筋の光が差し込みます。平群らのあずかり知らぬところで、崑崙に漂着した遣唐使の救出作戦が動き出していたのです。救出の命令を出したのは、唐の玄宗皇帝でした。遣唐使船が遭難したという情報が耳に入ると、玄宗皇帝は日本の天皇宛てに手紙を書いています。その内容を見てみましょう。

「…朕は聞いている。平群朝臣広成等が漂流して林邑国にいるということを。彼の地は異国であるので、言語は通ぜず、掠奪を受けたということを。ある者は殺され、ある者は奴隷として売られてしまったということを。かの災難のことを、彼らのことを思いながら聞くと、聞くに忍びない。かくのごとき事情とあらば、林邑国は日ごろからわが唐朝に朝貢している国であるからして、朕はすでに安南都護府に勅令を下し、勅語を広く告示して、見つかった人々を唐に連れて帰るように命令を下した。さらには、彼らの救出に至る日まで、警護の官を出して保護に努めているところだ。また、一船については、その所在がまったくわからない。永く心にかけて心配をしている。あるいはすでに日本国に至ったか。もし、帰ってきているのであれば、つぶさに事の次第を奏上せよ。」

 

玄宗皇帝の命により、漂着した遣唐使船の中で生き残った日本人を唐に連れて帰る指令を受けたのが「熟崑崙」。つまり唐に帰順して従っていた崑崙人でした。こうして平群ら4人の遣唐使は、熟崑崙人によってひそかに船に乗せられ、崑崙から脱出します。

救世主その2 阿倍仲麻呂

逢本朝学生阿部仲満、便奏、得入朝、請取渤海路帰朝。

崑崙から脱出し、唐に戻ることができた平群らですが、一安心というわけにはいきませんでした。もはや彼らには船もなく、水夫もいません。ここからどうやって日本に帰ればいいのか、途方に暮れたことでしょう。

そんな彼らの力になったのは、歴史の教科書でおなじみの阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)でした。717年に遣唐使として派遣された仲麻呂は長安に留学し、国家試験である科挙に合格、唐で官職につき、玄宗皇帝の元で仕えていました。

仲麻呂は彼ら4人が日本に帰れる方法を探ります。日本からの遣唐使と一緒に帰る方法では、さらに数十年待たなければなりません。そうなると、別の国の船に乗せてもらう方法をとるしかありませんでした。しかし、日本に最も近い位置にある新羅とは、関係が悪化していたためお願いできません。そこで仲麻呂が目をつけたのは、新羅と隣接する位置にあった渤海という国でした。

新羅:現在の朝鮮半島南東部に位置した国

渤海:現在の朝鮮半島北部から中国東北部、ロシア沿岸部を支配していた国

救世主その3 海東の盛国・渤海

適遇其王大欽茂差使欲聘我朝。

当時、新羅が唐との関係を深めるのとは反対に、渤海は唐と対立関係にあり、国際的な孤立を深めていました。そこで新羅と対立していた日本との国交を結ぼうと、10年ほど前の727年には渤海使を日本に派遣しています。平群らが崑崙国から唐に戻ってきた時期はちょうど、渤海の国王が大欽茂(だいきんも)に変わったときで、自らの即位を日本に知らせ、新体制の下、友好関係を築くために日本に使いを出そうと考えていたのです。この渤海からの船に平群らを乗せて日本まで送ってもらおうというのが、仲麻呂の考えでした。

日本との友好関係を結びたい渤海からすると、漂流した遣唐使を日本に送り返すことができれば、その目的を達成することができるのは間違いありません。仲麻呂の考えは、新羅、渤海、唐、そして日本の、東アジアの国際関係を巧みに利用したものでした。

しかし、唐からすれば、関係が良好ではない渤海の船によって遣唐使が送り帰されるのは、決して面白くはなかったでしょう。それでも仲麻呂は玄宗皇帝に上奏し、渤海経由で4人が帰国できるように取り計らってもらいたい旨を伝え、それが認められたのです。この案を唐に仕える仲麻呂が言ったのですから、彼の苦労や決意も相当なものだったと思います。

動き出した帰国への歯車

及渡沸海、渤海一船、遇浪傾覆。大使胥要徳等卌人歿死。

国を超え、様々な人たちの手助けのおかげで、とうとう、平群ら漂流遣唐使たちの日本への帰還が現実のものとなります。渤海ではすぐに日本への船が用意され、大使・胥要徳(しょようとく)、副使・己珍蒙(きちんもう)とともに日本へ渡ることが決まりました。こうして、平群ら4人は渤海使の船に同乗して、739年7月13日出羽国(現在の山形県、秋田県)にたどり着いたのです。平群広成の辛く、悲しい旅がようやく終わりました。

しかし、彼らの旅は最後まで喜びの瞬間を迎えることはありませんでした。平群の最後の苦難、それは2艘で出発したうち、大使・胥要徳らが乗る船はいつまで経っても日本に到着することがなかったということです。彼らの船もまた、荒波で転覆し、40人の渤海使たちが海で命を落としたのでした。

古代日本で最も広い世界を見た男の旅の終わり

image by iStockphoto

出羽国に到着してから、平群ら4人の遣唐使は、どんな思いで海を見つめたのでしょう。波が渤海の人々を乗せた船を運ぶことを期待しながら、海を見つめたのか。それとも多くの仲間を飲み込んだ海を憎しみの目で見つめたのか。むなしくも、日本の海が渤海の人々を運んできてくれることはありませんでした。こうして海に背を向け、出羽国を後にした平群広成は、739年10月27日、6年ぶりに故郷である奈良・平城京の土を踏みしめたのでした。

1 2 3
Share: