聖武天皇即位の背景
聖武天皇の系図をさかのぼると、壬申の乱で勝利した天武天皇に行きつきます。壬申の乱で兄である天智天皇の子の大友皇子に勝利した天武天皇は律令にもとづく国づくりを行いました。律令づくりに深くかかわり勢力を広げたのが藤原不比等です。不比等と彼の子供たちは聖武天皇と深くかかわりを持ちました。奈良時代前期、文武天皇が若くして亡くなると幼い首皇子(のちの聖武天皇)が成人するまでの間、中継ぎの女帝が相次ぎます。
天武天皇が勝利した壬申の乱
大化の改新を成し遂げた中大兄皇子は天智天皇として即位し国政を指導しました。天智天皇が亡くなる直前、弟の大海人皇子は引退を宣言し奈良県の吉野に移り住みます。天智天皇が亡くなると、大海人皇子は吉野を脱出。東国の兵を集めて近江の朝廷に対抗しようとしました。
近江で天皇に即位しようとしていた天智天皇の子である大友皇子は直ちに大海人皇子を討とうとします。しかし、大海人皇子は機先を制して伊勢や美濃で兵を募り、東国からの援軍も得て勢力を拡大しました。
出遅れた大友皇子軍は体勢を立て直そうとしますが、大海人皇子の軍は素早く兵を進め、大友皇子に立て直す隙を与えません。近江朝廷の軍を各所で打ち破った大海人皇子は壬申の乱に勝利します。大海人皇子は天武天皇となりました。
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律令国家の形成と藤原氏
内乱に勝利した天武天皇は強力なリーダーシップを発揮して中央集権化を推し進めます。武力で勝利した天武天皇の方針に逆らうことができる豪族はいませんでした。
天武天皇やその妻でのちに即位した持統天皇は飛鳥浄御原令の制定や庚寅年籍の編纂、身分制度である八色の姓などを次々と定めます。また、持統天皇は中国式の都城である藤原京を建設し遷都しました。
天武天皇や持統天皇、その孫である文武天皇に仕え、律令の制定で活躍したのが藤原不比等です。律令制定の目的は中国の政治システムだった律令を日本に取り入れ、天皇を中心とする中央集権国家の仕組みを作り上げることでした。
律令制定で力を発揮した不比等は下級役人から異例の出世を遂げ、奈良時代の有力貴族となります。不比等の子孫である藤原一族は奈良・平安を通じて日本を支配していきました。不比等の娘である光明子は皇太子時代の首皇子と結婚します。
文武天皇の死と相次ぐ中継ぎの女帝たち
天武天皇や持統天皇が推し進めた中央集権化は孫である文武天皇に引き継がれました。文武天皇は14歳という異例の若さで即位します。平安時代と異なり、奈良時代の天皇は政治を行うことが前提だったので成人である必要がありました。その点で、文武天皇の14歳での即位は異例のことだったのです。
そのため、文武天皇は祖母である持統上皇の指導のもと、政治を行いました。しかし、文武天皇が24歳の若さで亡くなると、あとを継ぐべき首皇子が7歳だったため、首皇子の祖母にあたる文武天皇の母が元明天皇として即位します。
元明天皇が715年に死去した時、まだ若かった首皇子の即位は見送られ文武天皇の姉が元正天皇として即位しました。いわば、中継ぎの中継ぎといったところでしょう。
聖武天皇の治世
父である文武天皇の死後、元明天皇、元正天皇という二人の女帝が中継ぎとして即位しました。聖武天皇が彼女たちから位を継ぐのは24歳になった時のことです。聖武天皇が即位したころ政権を握っていたのは皇族の長屋王でした。729年に長屋王が失脚すると藤原不比等の四人の子供が跡を継ぎます。その後も、政争や自然災害が相次ぎ社会が不安定化しました。聖武天皇は仏教を国家の中心に据えることで社会を安定化させようとします。
聖武天皇の即位と長屋王政権
724年、成人した首皇子は天皇に即位しました。彼は後に聖武天皇とよばれます。聖武天皇が即位したとき、政権のトップにいたのは皇族代表の長屋王でした。長屋王は天武天皇の孫にあたります。
このころ、朝廷に入る税収が減りつつありました。長屋王は100万町歩の開墾計画を発表し、大々的な農地拡大をはかります。また、律令制度をしっかりと機能させようと各部署に指令を出しました。
一方、藤原氏は不比等の死後、4人の子(藤原四子)が朝廷にいましたが長屋王と比べると官職が低く、弱い勢力でした。
729年、長屋王に謀反の疑いがかけられます。内容は、聖武天皇と光明子の間に生まれた基王を呪詛して殺したとの疑いでした。藤原四子の一人である藤原宇合は兵を率いて長屋王の屋敷を包囲。長屋王は自害しました。この事件を長屋王の変といいます。