奈良時代日本の歴史

仏教を厚く信仰した奈良時代の天皇「聖武天皇」を元予備校講師がわかりやすく解説

光明子の立后と藤原四子

長屋王の死後、聖武天皇の朝廷で力を持ったのが藤原四子でした。彼らは自分たちの兄弟で聖武天皇の妃の一人だった光明子を皇后にしようとします。

これまで、皇后の位が与えられるのは皇族出身の妃に限られていました。推古天皇や持統天皇、元明天皇などのように即位する可能性があったからです。しかし、四子はこれまでの慣例を破り光明子を皇后とすることに成功しました。

他を寄せ付けない権力を手に入れたと思った刹那、藤原四子を不幸が襲います。都やその周辺で天然痘が大流行しました。奈良時代、天然痘に対する特効薬はありません。天然痘を発症した場合、二人に一人が死亡したといいます。藤原四子は天然痘でなんと全員死亡してしまいました。

藤原広嗣の乱と度重なる遷都

藤原四子の死後、聖武天皇のもとで政権を担当したのは橘諸兄です。橘諸兄は皇族でしたが、橘姓を与えられ皇族の籍を抜けていました。天然痘で政府の重要人物がことごとく死んでしまったため、諸兄が政権を引き継ぎます。

諸兄は遣唐使として唐の赴いたことがある吉備真備玄昉を側近にすえて政治を行いました。政権から排除された藤原氏の一族は不満を募らせます。

740年、九州の大宰府にいた藤原広嗣(藤原宇合の子)は玄昉や吉備真備を追放せよと主張し兵をあげました。聖武天皇は大野東人を大将軍に任命し藤原広嗣を討伐させます。

藤原広嗣の乱は3か月ほどで終結しましたが、聖武天皇は乱の終結を待たずに都を山背国の恭仁京に移しました。その後、摂津国難波宮、近江国紫香楽宮へと遷都。最終的に平城京に帰還します。度重なる遷都の正確な理由はわかっていません。もしかしたら、聖武天皇が藤原広嗣の乱を極端に恐れたためかもしれませんね。

聖武天皇の仏教保護と国分寺建立の詔

聖武天皇が在位した天平年間(729年から749年)は天然痘の大流行や藤原広嗣の乱など朝廷を揺るがす大事件が立て続けに起きました。聖武天皇にとって災厄ともいうべき出来事から天皇や朝廷を守るため、聖武天皇は厚く仏法を信じるようになります。

熱心な仏教徒である光明皇后のアドバイスもあり、聖武天皇は仏教の信仰を強めました。仏教の力で国を守ることを鎮護国家といいます。741年、聖武天皇は鎮護国家を実現するため諸国に七重塔と国分寺・国分尼寺の造営を命じる国分寺建立の詔を出しました。

最大の国分寺は奈良にある東大寺。東大寺は諸国の国分寺の頂点に立つとして総国分寺と位置づけられます。国分寺の多くは現在の県庁にあたる国衙の周辺に建てられました。国衙と共に律令国家の権威を象徴する建物となったのです。

大仏造立の詔と聖武天皇の死

743年、聖武天皇は大仏の造立を思い立ちます。大仏の正式名称は盧舎那仏。盧舎那仏は宇宙の真理を人々に伝え、悟りに導く仏とされています。聖武天皇は廬舎那仏に自分自身や日本の国民を導いてほしかったのでしょう。

大仏は当初、紫香楽宮に作られる予定でした。しかし、聖武天皇が都を平城京に戻したため、大仏も平城京に作られます。大仏造立にはのべ260万人が動員されました。使用された銅は443トン。

大仏と大仏殿の建設には巨額の国費がつぎ込まれます。現在の価格での換算は難しいですが、4000億円は下りません。巨額の国費をつぎ込んだ大仏造立は7年にわたって続きました。

752年、天皇の位を娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲っていた聖武太上天皇は大仏の開眼供養に臨みます。開眼供養とは仏の魂を大仏に入れる重要な儀式。1万人以上が参列する開眼供養に参列した聖武太上天皇はどのような気持ちだったのでしょうか。開眼供養の4年後、聖武天皇はこの世を去ります。

聖武天皇後の政治

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国分寺建立や大仏造立は仏教の力で国を守りたいと願った聖武天皇の肝いりの政策でした。しかし、実際は国家財政を圧迫し税負担の重さに耐えられなくなった農民は土地を捨て浮浪者となります。律令国家の仕組みは大きく音を立てて崩れました。聖武天皇の死後、藤原仲麻呂や道鏡の政権が成立します。政治と仏教が癒着する中、桓武天皇は平城京を去り平安京に遷都しました。

藤原仲麻呂政権の成立

756年、聖武天皇の死の直前、橘諸兄が政界を引退しました。かわって政権を握ったのが藤原仲麻呂です。仲麻呂は光明皇太后の信任を背景とし政治の実権を握りました。

これに不満を持ったのが橘諸兄の子の橘奈良麻呂でした。奈良麻呂は仲麻呂を殺害し孝謙天皇を退けて別の天皇を建てようとします。この動きが仲麻呂に発覚し反乱を起こす前に逮捕されました。朝廷の有力者の多くが事件に連座したため、仲麻呂は名実ともに朝廷のトップとなります。

758年に孝謙天皇が退位し淳仁天皇が即位すると仲麻呂の権力はさらに強まりました。しかし、760年に光明皇太后が死去したことで仲麻呂は後ろ盾を失います。

そのころ、退位した孝謙上皇は道鏡という僧侶を信任・寵愛するようになりました。道鏡が孝謙上皇の看病をしたことがきっかけでした。仲麻呂は道鏡を退けようと孝謙上皇を諫めます。しかし、これが逆効果。孝謙上皇は怒り、ますます道鏡を信任するようになります。

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