日本の歴史江戸時代

文治政治へと転換させた5代将軍「徳川綱吉」をわかりやすく解説

徳川家光の四男として生まれた綱吉は、兄たちの死によって徳川本家を相続。江戸幕府五代目将軍となりました。治世の前半は朱子学を中心とした政治を行い天和の治とたたえられます。その一方、治世の後半は生類憐みの令や元禄の貨幣改鋳など後世の評価が分かれる政策を実施します。今回は徳川綱吉についてわかりやすく解説します。

思いがけず将軍となった徳川綱吉

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徳川家光の四男として生まれた綱吉は、上に三人の兄たちがいることもあり将軍の後継者とは縁遠い存在でした。しかし、兄たちが相次いで死去することで思いもかけず徳川本家を相続することになります。将軍となった綱吉は、兄である四代将軍徳川家綱時代に力を持っていた大老の酒井忠清を退け積極的に政治に関与しました。

三代将軍、徳川家光の子として誕生

1646年、綱吉は徳川家光の四男として江戸城で生まれます。幼名は徳松といいました。母は側室の玉、のちの桂昌院です。桂昌院は関白二条光平の家司(貴族に仕える現代の執事のような役職)の娘だといわれますが、より低い身分だったかもしれません。

父の家光は長男の家綱を跡継ぎにすると考えていました。家光が早々と後継者を定めた理由は、自身と弟の徳川忠長との間の後継者争いがあったといいます。母親の身分が高くないこともあり、綱吉は有力な後継者候補ではありませんでした。

1651年には5カ国で合計15万石の所領を与えられ、家臣団を付けられます。同じ1651年、父の家光が死去しました。1653年に家綱が右大臣に昇進すると、綱吉は兄の綱重とともに元服。松平綱吉となりました。

館林藩主から徳川本家を相続し将軍へ

家光の子供のうち、成人したのは3人。長男の家綱は家光の死後、徳川本家を相続します。三男の綱重は甲府藩主に、四男の綱吉は館林藩主になりました。綱重と綱吉は御三家に次ぐ家格で扱われます。

綱重と綱吉は領地の甲府や館林にはいかず、常に江戸にいることとされました。将軍家綱に子供ができない状態で何かあった時、有力な後継者候補となるからです。

というのも、家綱は生まれつき体が弱く30歳を過ぎても後継者となる男子に恵まれていなかったからでした。

1678年、兄の綱重が病死したため家綱が死去した時の後継者として綱吉の将軍就任の可能性が上がります。1680年、病に倒れ危篤となった家綱は綱吉を養子に迎えました。綱吉は徳川本家の家督を相続し、右大臣・右近衛大将に任じられ、ほどなく征夷大将軍に就任します。

大老酒井忠清の解任と越後騒動の裁定しなおし

家綱時代の末期、健康状態がすぐれない家綱に代わって幕政を動かしていたのは大老の酒井忠清でした。酒井家は三河以来の譜代大名の名門で、祖父の酒井忠世は家康・秀忠・家光の三代に仕えた老臣です。

忠清は家綱を補佐し、仙台藩のお家騒動である伊達騒動や越後高田藩で起きた越後騒動などのお家騒動を裁定。忠清は幕府への権力集中を進め、家綱の晩年には並ぶものない権勢を誇ります。

綱吉は将軍就任後、病気療養を理由に忠清を大老から解任。自分を将軍に推薦してくれた功労者である堀田正俊を大老にしました。また、綱吉は忠清が裁定した越後騒動を裁定しなおし、高田藩を改易にします。

先代の家綱が「左様せい様」といわれるのと対照的に、綱吉は積極的に政治に取り組む姿勢をアピールしました。

大老堀田正俊が補佐した綱吉の治世前半、天和の治

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将軍に就任した徳川綱吉は、大老堀田正俊の補佐で「天和の治」とよばれる政治をおこないます。家康時代から続いていた諸大名を幕府の力で抑える武断政治を学問や礼儀で秩序を整える文治政治に移行させたのはこの時期のことです。朱子学を中心とした政治思想にもとづき武家諸法度の改定や湯島聖堂の建設に取り組みました。

綱吉を将軍に推薦し、綱吉を補佐した大老堀田正俊

家綱時代の後半、大老酒井忠清と対立したのが堀田正俊です。堀田は家綱が危篤になると、家綱に館林藩主だった綱吉を後継者にするよう進言。綱吉は堀田の進言を受け入れて綱吉を養子としました。

綱吉が将軍に就任すると、解任した酒井忠清にかわって大老に任じられます。幕府財政の見直しが意識される中、1682年に勘定吟味役が設置されました。幕府の財政を司る勘定所の業務を監査するのが勘定吟味役の仕事です。

勘定吟味役は不正を発見し次第、老中に報告する権限を持っていました。堀田を中心とする当時の幕閣は財政のチェックをしようとしたのかもしれません。しかし、堀田は1684年に江戸城中で若年寄稲葉正休によって刺殺されてしまいました。

武家諸法度天和令の発布

1683年、綱吉は新たに武家諸法度を改定しました。綱吉時代の年号を取って武家諸法度天和令とよばれます。武家諸法度は大名統制のために徳川秀忠の名前で出された武家諸法度元和令が最初のものでした。

武家諸法度元和令の第一条は「文武弓馬の道、専ら相嗜むべきこと」と書かれ、大名たちにいざというときのため常に戦いの準備を怠らないよう命じていました。

これに対し、綱吉が出した武家諸法度天和令の第一条は「文武忠孝を励し礼儀を正すべきの事」と改められます。綱吉は大名たちに学問や礼儀を重んじるよう命じました

ほかにも、忠義の行動とされた殉死(主君が死んだときに後を追って自害すること)の禁止も付け加えられました。綱吉は将軍や幕府を頂点とし、各大名が日本各地を治める幕藩体制を学問や礼儀で維持しようとしたのでしょう。こうした、学問や徳、礼儀を重んじる政治を文治政治といいます。

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