日本の歴史江戸時代

文治政治へと転換させた5代将軍「徳川綱吉」をわかりやすく解説

朱子学の振興と湯島聖堂建設

江戸時代、最も重視された学問は朱子学でした。幕府や藩が朱子学を重視した理由は、朱子学の大義名分論にあります。朱子学では君臣・父子の別をわきまえ、上下の身分秩序を守るべきだと説きました。これは、下剋上を抑え秩序を維持したい幕府や藩にとってはとても役に立つ学問です。そのため、幕府や藩は朱子学を積極的に奨励します。

徳川家康の時代、朱子学者の林羅山が上野忍ケ丘に儒学の祖とされる孔子をまつった孔子廟をつくりました。林羅山は家康に重用され、林家は幕府の文教政策を司る存在となります。

四代将軍家綱に仕えた林信篤は綱吉にも引き続き仕え、学問政策のトップである大学頭に任命されました。さらに1695年、綱吉は湯島に孔子廟を移転させ儒学の振興をはかります。以後、孔子廟は湯島聖堂とよばれ幕府による朱子学奨励の中心的役割を果たしました。

後世の評価が分かれる綱吉の治世後半

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堀田正俊が暗殺されたのち、綱吉は老中たちではなく自分の側近に控える側用人たちに政治を相談するようになりました。また、朱子学や仏教の教えを重視し極端な動物愛護例である生類憐みの令の発布なども行います。また、連年の自然災害や金銀の産出量の減少などにより傾き始めた幕府財政を立て直すため、小判の改鋳を実施しました。後世有名になる赤穂事件が起きるのも綱吉の治世後半のことです。綱吉治世の後半についてみてみましょう。

柳沢吉保ら側用人が政治の中心となった

大老の堀田正俊が暗殺されたのち、綱吉は大老を設置しませんでした。江戸幕府の仕組み上、大老は必ずしも設置されるわけではありませんので、大老がいないこと自体は珍しくありません。しかし、綱吉は会社の重役にあたる老中たちにも政治の相談をしなくなっていきました。

綱吉の相談役を務めるのは、常に綱吉のそばに仕える側用人たちです。側用人は将軍のそばに控え、将軍の命令を老中に伝える役目でした。特に柳沢吉保は将軍の信任が厚かったことで知られます。

綱吉の小姓だった吉保は綱吉が将軍になると側用人となりました。吉保は綱吉の寵愛を受け、異例の昇進を遂げます。ついには、老中をしのぐ権力を手にするまで昇りつめました。

最終的に吉保は甲斐一国を与えられますが、綱吉の死後に失脚。吉保の死後、柳沢家は大和郡山に転封となりました。

極端な動物愛護例である生類憐みの令

1685年、綱吉は生類憐みの令を発布します。生類憐みの対象となったのは、牛馬や犬、鳥類などあらゆる生き物に及びました。将軍の大名行列の前に犬猫がいても排除する必要がないことや、江戸城中での食事に鳥類・貝類・エビなどを出すことを禁じることなどが定められます。

1687年には牛馬にも生類憐みを拡大。犬に関して特に細かな規定が作られます。江戸の町内で犬を飼うときは登録を義務付けました。さらに、犬を保護し犬の殺傷を禁じる内容も追加されます。

犬を特に重視した理由は、綱吉が戌年だったからだともいわれますが、定かではありません。犬を過剰に保護するとみられた綱吉は「犬公方」とあだ名をつけられました。

生類憐みの令は人々の生活の妨げとなりましたが、捨て子や病人を捨てる風習の根絶にも役立ちます。現在、生類憐みの令は再評価される動きもあるようですよ。

荻原重秀の登用と経済政策の見直し

綱吉時代の後半に入ると、綱吉の放漫財政や幕府収入の低下、自然災害による支出の増加などにより幕府財政が悪化。財政の改善が急務となっていました。綱吉は旗本の荻原重秀を、幕府財政を預かる要職である勘定奉行に抜擢します。

重秀が勘定奉行になったころ、全国の金銀山の生産量は低下し、これ以上の増産は望めない状況でした。重秀はそれまでの小判よりも金の含有量が少ない元禄小判を発行します。小判の発行枚数を増やすことで、幕府の支出を賄いました。この貨幣改鋳で幕府が得た利益は500万両にも達したといいます。

ほかにも、佐渡金山で生産量を増やすための設備改善の実施や長崎貿易での運上金徴収、酒造家に対する課税などで幕府財政の改善をはかりました。綱吉は荻原重秀を全面的に信任。長期にわたって勘定奉行として幕府財政を監督させました。

忠臣蔵のもとになった赤穂事件

綱吉時代に起きた事件の一つに赤穂事件があります。赤穂事件とは、1701年に江戸城内で起きた傷害事件のこと。

赤穂藩主浅野内匠頭長矩は、朝廷との儀式を担当する役職に任命され、儀礼担当の吉良上野介義央の指導を受けていました。浅野が吉良に切りかかった正確な理由は定かではありませんが、朝廷の使者を迎える大事な儀式の最中に刃傷沙汰に及んだ浅野に対して綱吉は激怒。即日、浅野内匠頭長矩は切腹を命じられ浅野家は取り潰されました

もう一方の当事者である吉良上野介は、浅野に切りかかられても刀を抜かなかったことが評価され、おとがめなしとされます。

処分が不公平だと憤った赤穂藩士は、家老の大石内蔵助らが1703年に吉良上野介の屋敷に討ち入り、吉良を討ち取りました。幕府は大石らを切腹させます。

この事件をもとにした人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が上演されることにより、赤穂事件は後世に伝わる大事件となりました。

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