弥生時代日本の歴史

稲作の始まりと共に戦も始まった「弥生時代」はどんな時代?わかりやすく解説

弥生時代は、水田での稲作が始まった時代として歴史の教科書にも出てくるので、よくご存じの方も多いと思います。しかし、この弥生時代がいつ始まったのか、なぜ稲作が始まったのかなどについては記載がありません。何よりも、戦いのない平和な縄文時代に対して、なぜ弥生時代になると戦いの時代になったのかも知られていないのです。この日本列島の転換期になった弥生時代について解説します。

弥生時代の知られていないこと

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弥生時代については知っていても、なぜ弥生時代が生まれたかについて知っている人は少ないのが現実です。北九州の佐賀県には吉野ヶ里という規模の大きい弥生遺跡があります。しかし、なぜか壕(ほり)で囲まれており、甕棺に納められた遺骨には矢じりで傷ついた跡のある人骨も多く出土しているのです。

それに対して、縄文時代の遺跡として有名な青森県の三内丸山遺跡では、集落を囲こむものはなく、平和な時代であったことを示しています。

この縄文時代と弥生時代の違いについては歴史の教科書も沈黙したままです。この弥生時代の戦いの歴史がなぜ始まったのかについて見ていきましょう。

弥生時代はいつ始まったのか

弥生時代の始まりについては、10年以上前の教科書では紀元前2~3百年頃とされていました。しかし、現代では紀元前1千年前というのが通説になっています。弥生時代初期とされる北九州の板付遺跡などで、縄文時代晩期の特長である派手な文様の付いた土器と弥生の特長の比較的無文様に近い土器が併存した形で見つかったのです。同時に、水田稲作の遺構も見つかったことが大きく、その後も同様の遺跡が見つかりました。この板付遺跡は鑑定の結果、1千年前の遺構とわかったのです。

弥生時代の特長は、弥生式土器と言われる縄文式土器のような派手な紋様がついていない薄い土器と水田稲作にあります。

それらの特長はすでに1千年以上前の遺跡に見つかったことが時代がずれた大きな要因だったのです。

弥生時代に日本に来た農民と漁師の渡来人たち

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この弥生文化をもたらしたのは、大陸からの渡来人と言われています。それは、それまでの土器など意外に、縄文人の遺骨と弥生人の遺骨が大きく違っていたことがあったのです。

弥生時代後期に中国の魏に使いを行かせた邪馬台国の卑弥呼のことが三国志の中の魏志倭人伝に記載されています。それによると、稲作はもちろんですが、鯨面(顔にいれずみ)をした海士族(あまぞく)も邪馬台国の特長として記載されていました。すなわち、日本列島に渡来した人々には稲作農民とともに漁師たちも含まれていたのです。

縄文人と弥生人はどう違う?

一般に出土した人骨の骨格特長としては、縄文人は背が低く、ずんぐりむっくりした体型であったと言われています。一方、弥生人はほっそりとして背が高かったと言われているのです。そのため、弥生人が日本列島の縄文人を駆逐したとも言われています。

しかし、縄文人の骨格標本は少なく、しかも縄文人には、南方から来た人、シベリアの北方から来た人、中国大陸から来た人などさまざまな地域から来た人がいいました。そのため、本来縄文人の特長を1つにまとめることには無理があるのです。

ただ、縄文人の遺骨からは矢じり跡や殺された例はほとんど見つかっておらず、さらに死者を丁重に葬った遺跡も多くあります。階級もそれほど生まれていなかったようです。

それに対して、弥生人の遺跡では戦争の痕跡がたくさん残っており、集落を壕(ほり)で囲った環濠集落や周囲を見渡せ、防御のしやすい高地に集落を作ったりしていました。すなわち、外敵から守ろうとした形跡が多く見られ、人骨にも戦争で受けた傷のあるものが多くあります。つまり、弥生時代になって、日本列島はそれまでの平和な世界から戦いのある時代へと変わっていったと考えられているのです。

その背景には、水田稲作によって富を蓄積をできるようになり、その富を狙った人が現れたことにあったと考えられています。その富の蓄積は、同時に格差を生み、階級ができていったのです。

稲作そのものは弥生時代の1千年前からあった

縄文時代中期の4,500年くらい前には、すでに稲は日本列島に伝わっていました。しかし、それは陸稲といって、水田ではなく、野生に近い形で畑にまいて作られるもので、生産性が悪く、自分たちが食べるので精一杯の状態だったのです。したがって、その稲穂から獲れたお米を蓄積できるものではなく、縄文時代に変革を促すものではありませんでした。

それだけに、水田稲作は、縄文人にとっては画期的なものであり、縄文人の生活を大きく変えるきっかけとなっていったのです。

弥生時代の渡来人はどうして日本列島に来たのか

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では、なぜ1千年前になっていきなり多くの渡来人がこの日本列島に押し寄せたのでしょうか。また、彼らはなぜ戦いというものをこの日本列島に持ち込んでしまったのか。それには、中国大陸の黄河流域における寒冷化が大きな影響を与えたと考えられます。

中国の気候変動による民族移動

中国の古代文明は、紀元前1,500年前頃には、黄河流域と長江下流域で生じたと言われており、遺跡も発見されています。教科書などには、今も黄河流域が世界の四大文明として記載されているものが多いですが、実際には長江流域でも違う文明が生まれていたことが遺跡などで判明しているのです。黄河流域では、穀物などの畑作と羊などの遊牧が中心で、長江下流域では古くから水田稲作や漁業が行われています。

しかし、紀元前1,000年前頃に中国黄河流域において気候の寒冷化がおこり、黄河流域民たちは、南下して長江下流域にも押し寄せました。そのため、長江下流域の人々は、四散してしまったのです。ある人々は長江をさかのぼって雲南などで稲作民になり、ある人々は台湾に逃れました。そしてある人たち、すなわち倭族は、黄海沿いに移動して、遼東半島から朝鮮半島南部、北九州にまでたどり着いたと言われています。彼ら難民を運んだのは漁師の海士族だったでしょう。朝鮮半島には、中国黄河流域民も流れ着き、さらに遼東半島にいた朝鮮族も半島に移動して大混乱が生じていたのです。

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