弥生時代日本の歴史

稲作の始まりと共に戦も始まった「弥生時代」はどんな時代?わかりやすく解説

北九州にたどり着いた倭族は水田稲作を始めた

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一方、倭族が流れ着いた北九州では、彼らの持つ水田稲作技術や彼らの稲作に向いた土器や道具で水田稲作が始まったのです。彼らこそが、日本の弥生時代を形成させた人々でした。しかも、戦乱の中国大陸から来たために、自分たちを守るために武器も持ち込んだと考えられるのです。

それまで、陸稲の経験があった縄文人たちは戦いを好まなかったため、最初は遠くからその様子を伺っていました。しかし、その生産性のよい水田稲作に感心して渡来民たちとの交流が生まれていったのです。

中国の混乱による人口崩壊の事実

中国では、戦乱によって人口が半減するという人口崩壊が何度も生じています。それは、紀元前1,000年前だけでなく、紀元後の前漢が王莽の反乱で新たに新という国ができて滅びた際や、後漢末期の三国志に描かれたような戦乱によっても生じていました。

それらの中華民族の移動は周辺国に大きな影響を与えたのです。とくに、後漢末期の混乱は、多くの新しい渡来民を生み、日本列島では、弥生時代から古墳時代への移行が始まったと言われています。

弥生時代の集落は壕で囲むか、高台の上にあったのはなぜか

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弥生遺跡の特長は、すでに述べたように、環濠集落と呼ばれるように壕をめぐらすか、高台の見渡しのよいところに形成されたことで、多くの弥生遺跡が発見されています。それは、富の生まれた集落を襲う人々が生まれ、戦闘がおこなわれていたことを示しているのです。しかも、従来は狩りをするための道具だった弓矢や槍が戦いで使われるようになっていました。

したがって、渡来民たちは、水田稲作という富を蓄積できる技術をこの日本列島に伝えるとともに、新たな戦争、富に対する欲望をこの列島に持ち込んだと言えるのです。

縄文時代には戦いの跡はない平和な時代だった

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戦いのない平和な世界であった縄文人たちとの交流によってもたらされたものではありませんでした。むしろ、倭族同士の戦いが最初に起こったと考えられます。縄文人は、平和な人々であり、戦いそのものを好まなかったのです

何しろ、縄文時代末期の日本列島の縄文人の人口は10万人と言われており、それが弥生時代中期の紀元頃には60万人と倍に増加しています。それは食料事情が好転したこともありましたが、それだけでは説明ができません。やはり、それだけ渡来人が多く、この列島に来て縄文人を飲み込んでいったことを表しているのです。

日本書紀、古事記に残る古代の戦闘の記憶_天孫とは倭族

この戦乱の弥生時代は、遺跡だけでなく、日本書紀や古事記などの神話にもその形跡を残しています。イザナギノミコトの黄泉の世界から逃げ帰る際の戦い、スサノオノミコトのヤマタノオロチの退治などです。出雲の王になった大国主命(オオアナムチ)の日本列島をスクナビコナと平定した神話、大国主命には八千矛神(ヤチホコノカミ)の神の異名があることなどにも示されています。また、高天原の天孫がこの日本列島に降臨する際の国譲り神話は、まさに倭族の日本列島での地位確立の出来事と言えるのです。

これらは、富ができつつある日本列島で戦いが起こっていたことを示していたと言えます。

出雲族と倭族の歴史から見えるもの

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日本古来の出雲族の大物主命(大国主命の別名)は、倭族のニビハヤヒとともに奈良の大和盆地に入り、あとから大和に入ったイワレヒコ(神武天皇)に大和の支配権を渡しています。その後も、大和盆地では、第10代天皇である崇神天皇の時代まではさまざまな戦いがあったことが記載されているのです。そして、大物主命は大和の三輪山の麓にある大神神社に祀られています。

そして大和朝廷が勢力範囲を広げ、いつの間にか、出雲地方は大和朝廷の支配地になっていったのです。しかし、出雲が大和朝廷にとって特別な存在であったことは、出雲風土記が他の風土記などよりも圧倒的に神話が多いことでもわかります。

それは、縄文人と彼らを駆逐していった倭族の弥生人の歴史だったと言えるのです。

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