出自不明から成りあがった男
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天下に名を轟かせた武将でありながら、松永久秀の出自ははっきりとはしていません。ただ、彼は能力だけでのし上がり、ついには信長以前の天下人とされる三好長慶(みよしながよし)の右腕という存在にまで上り詰めました。彼のサクセスストーリーを見ていきましょう。
いったいどこの出身?しかし能力はピカイチ
松永久秀は、永正5(1508)年生まれとも永正7(1510)年生まれとも伝わっています。室町幕府でいえば10代から11代将軍のころとなりますね。世界的に見れば大航海時代のころです。
出身についても諸説あり、はっきりとはしていません。阿波(あわ/徳島県)や山城(やましろ/京都府南部)や摂津(大阪府高槻市付近)などといろいろ言われており、それほど身分が高くなかったということは容易に想像できます。
そんな久秀でしたが、どんなツテをたどったのか、天文2(1533)年ごろから三好長慶の右筆(ゆうひつ/秘書役・文章を代筆するのがメイン)として仕えるようになりました。そこで頭角を現し、事務方を取り仕切るようになったようです。三好長慶といえば、将来的には将軍を追放して三好政権を樹立し、織田信長よりも先に天下人となったと言われている人物。そんな武将の側近となったのですから、久秀がいかに有能だったかお分かりいただけると思います。
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ずば抜けた能力で大出世!三好家の家宰にまでのぼりつめる
仕官して10年ほどで、久秀は武将としても戦場で活躍するようになりました。同時に事務方としての能力もさらに磨かれ、長慶が政敵や将軍を近江(おうみ/滋賀県)に追放した後には、京都の公家や寺社と三好家との仲介役を務めるようになっています。特に寺社は力を持っていましたから、それ相応の交渉力がないと対等に渡り合うことができません。しかも、後に織田信長をさんざんに苦しめた本願寺(ほんがんじ)から贈り物をもらうほどの存在感となっていったんですよ。
やがて、三好長慶は、天文21(1552)年に三好政権を樹立しました。ここで久秀は三好家の家宰(かさい)に就任します。家宰とは、家長の代理として家の一切を取り仕切る役職であり、陰の実力者でした。すでに長慶の娘を妻としていた久秀は、三好家の中でも最重要クラスの存在となっていたのです。
三好家と幕府、両方での重鎮となる
その後も多くの戦いで活躍した久秀は、長慶と和睦した将軍・足利義輝(あしかがよしてる)からも厚遇されるようになります。義輝の御伴衆(おともしゅう)となり、将軍の側近をも兼任するようになりました。それは、主・長慶と同等の待遇であり、彼がいかに上の者の心をつかむことに長けていたのかということを証明していますよね。こうして、久秀は三好政権と幕府の仲介役を任され、三好・幕府両政権での重鎮となっていったのです。
この頃、久秀は信貴山城(しぎさんじょう/奈良県生駒郡平群町)を建設し、次いで多聞山城(たもんやまじょう/奈良県奈良市)をつくりました。ここにも彼の威勢と個性が示されているんですよ。一説には、多聞山城には織田信長による安土城よりも先に天守が設けられていたと言われており、彼が進歩的な人物だったことを示しています。
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将軍暗殺・大仏焼き討ち・主家乗っ取り!?
主君・三好長慶が亡くなると、三好家における久秀の存在感は他に並ぶべきもののないほどになっていきました。他の重臣たちとの壮絶な争いの中、彼の悪行として伝えられているのが、将軍暗殺や東大寺大仏殿の焼き討ちです。それは果たして本当だったのでしょうか?
主の死、そして将軍暗殺?
永禄7(1564)年、三好長慶は病没します。晩年は弟や息子に先立たれてやる気を失い、かつての覇者の面影は見るべくもありませんでした。
そして跡を継いだ甥の三好義継(みよしよしつぐ)を、久秀と重臣の三好三人衆が支えていくこととなったのです。
長慶の死の翌年、大事件が起きました。なんと、将軍・足利義輝が暗殺されたのです。首謀者は三好義継と三人衆、そして久秀の息子・久通(ひさみち)でした。久秀はその場にいませんでしたが、彼が画策していたと言われることもあります。将軍暗殺の報せを受けても何もしなかったわけですから、黙認していたことになりますよね。しかも息子が関わっているのに知らなかったということもないような気がします。