信長さえも戸惑わせた二度目の離反
そのことが久秀にとって引っかかっていたのかどうかはわかりませんが、天正5(1577)年、久秀はまたしても信長から離反します。信長にとっての宿敵・石山本願寺攻めの最中、久秀は突如戦線を離脱し、信貴山城に帰り、立て籠もってしまったのです。
信長からすれば、久秀が何を考えているのかまったくわかりませんでした。あの信長が戸惑い、使者を派遣して理由をたずねたのです。しかも、「何か問題があるなら言ってほしい、対応するから」とまで言っているんですよ。二度目の裏切りだというのに、ずいぶん丁寧な対応ですよね。そこまで、久秀を気に入っていたのでしょうか。
しかし、久秀は使者に会おうともしませんでした。ここに至って信長は久秀の心を変えることができないと理解し、息子・織田信忠(おだのぶただ)を総大将とした4万の軍勢を派遣し、信貴山城を包囲したのです。
信長の降伏勧告をはねつけ、城と共に燃え落ちる
対する久秀が率いていたのはわずか8千。兵力差から言えば圧倒的に不利でしたが、築城の名手・久秀が手がけた信貴山城は難攻不落として知られ、簡単には落とされませんでした。
しかし、味方の裏切りが起こり、形勢は一気に久秀に不利となり、追い込まれていったのです。
信長は、何とか久秀を懐柔しようと、久秀所有の名茶器「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」を差し出せば許してやるなどと持ちかけました。
しかし、もはや覚悟を決めていた久秀は、「我々の首と平蜘蛛は、信長公には決してお目にかけることはない。鉄砲の薬で粉々にしてやるぞ」と返事をし、平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ、自害して果てたのです。68歳でした。
壮絶な自爆と伝わっている説もありますが、これは後世の創作という話です。平蜘蛛に火薬を仕込んで点火し、天守もろとも自爆したというものなのですが、こちらの方があまりに衝撃的なので、実話のように語られているようですね。とはいえ、これまでの久秀の行動からすれば、実際に爆死していても不思議はないように思えます。
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松永久秀という男のひととなり
久秀の人生を見てくると、反逆や裏切りに満ちているように思えます。
確かに信長を二度裏切りましたが、結局、彼は最後まで三好家を当主と仰ぎ、三好長慶の死後は義継を担いで戦い続けているのです。また、彼は人並み以上の教養を身に着け、当時は最先端の趣味でもあった茶道を自在に嗜み、信長もうらやむほどの超一流の教養人でもありました。それだけではなく、名医から医術と健康法を学び、自ら性の指南書まで書き残すという一面もあったのです。こうして見てくると、松永久秀は、武将として実に興味深い人物だったと感じられますよね。
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