古代から続く交易の道「シルクロード」の歴史ー現在までの変化を詳しく解説
- シルクロードは絹の道として世界遺産にも登録されている
- 漢王朝の時代にはシルクロードは重要な交易路となっていた
- 古代のシルクロードの東に位置していた西域
- シルクロードの入り口になった敦煌
- 西遊記で有名な三蔵法師もシルクロードの敦煌を通ってインド(天竺)へ
- シルクロードの終着点は平城京と言われたこともあった
- 正倉院にはシルクロードを通って運ばれた遺品が多く存在する
- マルコポーロの東方見聞録によってヨーロッパに知れ渡ったジパング
- ヨーロッパの人々は日本を黄金の国と憧れた
- モンゴル帝国で重要な戦略路と情報手段としてシルクロードは使われた
- イスラム勢力が中央アジアまで勢力圏を伸ばし、シルクロードを支配
- ヨーロッパ側のシルクロードの入り口はオスマン帝国が支配した
- シルクロードの衰退_海のシルクロードの発展
- 大航海時代以降になるとヨーロッパは海路で中国との交易をはじめる
- 海のシルクロードの開発によるヨーロッパの勢力図の変化
- イスラム勢力の衰退とシルクロードの衰退
- 中国による現代のシルクロードの復活作戦
- ヨーロッパと東アジアを結んだシルクロード
この記事の目次
シルクロードは絹の道として世界遺産にも登録されている
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シルクロードは、中国とヨーロッパ、とくに地中海都市との間を結ぶ交易路のことを言います。この交易路であるシルクロードは、一本の道というわけではなく、さまざまな経路があり、途中でインドに向かう道に別れてもいるのです。早く言えば、アジアからヨーロッパにまたがるユーラシア大陸を東西に結ぶ道のことを言っています。さまざまな時代において、シルクロードを支配する勢力もさまざま変わり、それによってコースも変わっていたのです。
この道をたどって中国の絹織物などがヨーロッパに運ばれたことから、「絹の道」、すなわちシルクロードと呼ばれていました。その一部は、世界遺産にも登録されています。
漢王朝の時代にはシルクロードは重要な交易路となっていた
前漢の武帝は、しばしば侵略を繰り返す北方の匈奴を討とうと、張騫という人を西域の大月氏に派遣し、同盟を図ろうとしました。匈奴を討つことはできなかったものの、それによって、西域まで届いていたが東西貿易路の存在が明らかになったのです。前漢は、その東西交易路を都の長安(後には落陽)まで伸ばし、中央アジアに点在するオアシス都市を結んだシルクロードが開かれるようになりました。この時代以降、東西交易路としてのシルクロードが成立したのです
このシルクロードを通して、中国にはヨーロッパのギリシャ、ローマのガラス陶器などが運ばれ、中国からは絹織物などが運ばれて、両者にとって重要な交易路として成立しました。
古代のシルクロードの東に位置していた西域
古代のシルクロードの東端の中国との境にあった西域は、歴史的に、北方民族と中央アジアのツングート族、ウィグル族などと中国王朝がシルクロードの支配をめぐって争っていました。中国にとっては、西域が北方民族と組めば挟み撃ちにされるために、その支配は重要になっていたのです。しかもヨーロッパの文物が入ってこなくなることになってしまいます。そのために、常にゴビ砂漠のオアシス都市は攻防がおこなわれていたのです。当時は中央アジアもまだイスラム圏には入っておらず、西域都市は、歴代中国王朝や北方民族と同盟したり、敵対したりしていました。
シルクロードの入り口になった敦煌
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ゴビ砂漠の東に位置する敦煌は、中国王朝の西のはずれにあり、長安、洛陽などの都からヨーロッパの地中海都市やインドに続くシルクロードの中国側の入り口となっていました。敦煌は、同時に、シルクロードがインド経路と別れる中継オアシス都市として重要な拠点となり、ここを経由して伝わった仏教文化が花開していたのです。西遊記の三蔵法師で有名な僧玄奘もここ敦煌を経由してインド(天竺)に行きました。また、日本の小説家井上靖の名作「敦煌」でも紹介され、映画にもなったことで日本でも良く知られています。多くの寺院洞窟が集まった莫高窟には、世界遺産にもなっている仏教壁画などが数多く描かれており、世界から多くの人々が訪れているのです。
敦煌は、その後中央アジアのイスラム勢力などの侵略や、北方民族の侵略が続き、中国がそれに対抗して争ったため、衰退していきました。
西遊記で有名な三蔵法師もシルクロードの敦煌を通ってインド(天竺)へ
中国の唐の時代には、僧玄奘三蔵がこのシルクロードの敦煌を通ってインド(当時の天竺)に行き、多くの経典を翻訳して持ち帰ったことは有名です。玄奘三蔵はダルマさんのモデルにもなっており、日本では人気ですね。その玄奘三層の道中を描いたのが、孫悟空などでおなじみの西遊記です。シルクロードは、インドからの仏教伝来の道になっていました。
シルクロードの終着点は平城京と言われたこともあった
7世紀から9世紀にかけては、日本の朝廷は、当時東アジアでも最大の国であり、文化の進んでいた唐に遣唐使を派遣していました。その遣唐使たちは、唐の都の長安で勉学を励むと共に、中国の仏教経典や、珍しい文物を集め、日本に持ち帰っていたのです。弘法大師として有名な空海なども遣唐使として唐の都の長安を訪れています。また、阿倍仲麻呂は長く遣唐使として長安に滞在し、唐の科挙(官僚抜擢のための試験)に合格し、有名な玄宗皇帝にも使えていました。
遣唐使が持ち帰った文物の中には、シルクロードを通してヨーロッパからもたらされたガラス陶器なども含まれていたのです。その奈良時代に持ち帰った文化財が今も奈良の正倉院に保管されており、定期的に公開されていますので、ご覧になってください。
このようにシルクロードを経由してもたらされたヨーロッパや中央アジアの文化財は日本まで届いており、シルクロードの終着点は奈良の平城京と言われた時代もあったのです。
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