古代から続く交易の道「シルクロード」の歴史ー現在までの変化を詳しく解説
正倉院にはシルクロードを通って運ばれた遺品が多く存在する
奈良時代の宝物が保管された正倉院の宝物の中には、インド、イランをはじめ、ギリシャ、ローマ、エジプトの文化財も含まれており、カットグラス白瑠璃碗なども多く含まれています。正倉院のシルクロード博として公開される文化財を見ていると、まるでさまざまな文化の交じり合った文明のるつぼを思い起こさせてくれますよ。
マルコポーロの東方見聞録によってヨーロッパに知れ渡ったジパング
13世紀から14世紀にわたって活躍したイタリアのヴェネチアの商人であり、冒険家であったマルコポーロがいます。彼は、シルクロードを通って中国の長安まで行き、帰りには海から東南アジアからインド西岸から中東地域を横断してイタリアに帰りました。彼は、帰ってから、この中国をはじめとするアジアの様子を紹介した「東方見聞録」を著述したことで有名です。マルコポーロは、その中で日本のことをジパングとして紹介しています。
ヨーロッパの人々は日本を黄金の国と憧れた
マルコポーロは、中国の東方の海域に黄金の国ジパングがあったと記載し、ヨーロッパではこのジパングにあこがれが生じる時期もあったのです。しかし、当時は、シルクロードは、イスラム勢力によって支配され、容易にヨーロッパの商人が中国に行くことはできませんでした。それもあって彼は、帰路では海のシルクロードを通って帰国したのです。そのような状況から、黄金郷ジパングは幻の国となってしまいました。
この黄金郷ジパングは、奥州藤原氏の平泉の中尊寺金色堂のことを噂話として聞いたのではないかと言われています。
モンゴル帝国で重要な戦略路と情報手段としてシルクロードは使われた
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中国の12世紀から13世紀に栄えた宋王朝は、北方にいた女真族の金に攻められ、都を南の臨安に移し、南宋と呼ばれるようになります。しかし、北方民族であったチンギス・ハーンが築いたモンゴル帝国は、中国東北部を占めていた金を滅ぼし、さらに中国の南宋にも攻め込みました。その結果、南宋はついに滅ぼされ、チンギス・ハーンの孫にあたるフビライハンによって建国された「元」というモンゴル帝国が中国を支配するようになったのです。
東西交易の要であったシルクロードも、モンゴル帝国の「元」とその兄弟国によってその全体を支配されました。モンゴル帝国は、シルクロードをユーラシア大陸の支配に利用し、その途中のオアシス都市にジャムチと呼ばれた駅伝を作ったのです。各地で発生した情報がいち早く元の都の大都(だいと、現在の北京)に伝わるようにしていました。もともと駅伝というのは、情報を伝えるための馬の乗り継ぎ場所のことだったのです。
同時に、元は東西貿易を支配し、ヨーロッパや西域都市との交易を独占していました。
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イスラム勢力が中央アジアまで勢力圏を伸ばし、シルクロードを支配
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7世紀に成立したサウジアラビアのメッカで生まれたモハンマドを教祖とするイスラム勢力は、中世において大きく拡大し、多くのイスラム帝国が生まれました。イスラム勢力は、中央アジアまで進出し、シルクロードを支配するようになります。もともと中央アジアにいたチュルクと呼ばれる民族は西方に移動し、イスラム化するとともに、15世紀にはオスマン帝国という当時最強の国家を建設しました。また、イランに成立したサファヴィー朝は、イスラムシーア派を国教とした帝国で、その首都であるイスファハーンは東西貿易の中継地として栄えています。イスファハーンには、ヨーロッパ、中東、中国などの宝物が集まり、多くの異民族が多く集まっていたと言われていました。その光景を見た人々は、「イスファハーンは世界の半分」とまで言っており、並ぶもののない繁栄を誇ったのです。
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一方、オスマン帝国は、その勢力圏を東ヨーロッパにまで拡大し、シルクロードのヨーロッパ側の入り口となる黒海沿岸のバルカン半島を支配しました。オスマン帝国は、2度にわたってオーストリア帝国の首都ウィーンを包囲するほどの力を誇ります。オスマン帝国は、ヨーロッパと中国との東西貿易の西側の入り口を支配し、東西貿易の利益を独り占めにしていたのです。