中国の歴史

古代から続く交易の道「シルクロード」の歴史ー現在までの変化を詳しく解説

シルクロードの衰退_海のシルクロードの発展

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シルクロードは、ヨーロッパと中国を結ぶ世界有数の交易路となり、イスラム帝国に大きな富をもたらしました。その入り口とオアシス都市を抑えられたヨーロッパは、社会が硬直的であった中世はそれが地中海都市に富をもたらしていたのです。

しかし、ルネサンスを境にしてヨーロッパでは新しいうねりが生じています。

大航海時代以降になるとヨーロッパは海路で中国との交易をはじめる

ヨーロッパでルネサンスが起こり、さまざまな芸術、産業技術が開発されるようになりました。そのうちの一つである羅針盤を使って、15世紀末には、ヴァスコタ・ガマによってアフリカ最南端の喜望峰を経由してアジアに行く航路が発見されます。この時代を大航海時代と言い、コロンブスによるアメリカ大陸の発見や、マゼランによる世界一周などもスペイン、ポルトガルなどの支援によっておこなわれていました。

そして、海を最初に制したスペインやポルトガルは、南米、東南アジアなどに進出し、最初の植民地化を開始したのです。そのころ、ヨーロッパでは、ルターなどの宗教革命起こり、ローマ法王を中心とするカトリックと呼ばれるキリスト教勢力はプロテスタントと対立していました。そのため、カトリックのスペインやポルトガルは、植民地にフランシスコ・ザビエルなどの宣教師を派遣し、カトリック教徒を増やそうとしたのです。

海のシルクロードの開発によるヨーロッパの勢力図の変化

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ヨーロッパではイスラム勢力に独占されていた東西貿易を、アフリカの喜望峰回りの航路が開発されたことによって、海路でおこなう動きが活発になっていきます。そのため、東西貿易の中心は、ヴェネツィアなどの地中海都市から、西ヨーロッパのオランダなどに移動して行くことになりました。その背景には、三十年戦争でプロテスタントが勝利したことがあったのです。

それに伴い、商業を容認するプロテスタントのオランダ、イギリスや重商主義を重視したフランスなどが、アジア地域の植民地化に取り組むようになります。インドを中心に東インド会社が設立されて、イギリス、フランス、オランダなどの植民地政策の前衛部隊となって東西交易を支配したのです。彼らは、それまでイスラム帝国に抑えられていたシルクロードを使わずに、中国との貿易をするようになっていきました。

すなわち、イスラム勢力に独占された東西交易路としてのシルクロードも変化せざるを得なくなっていったのです。

イスラム勢力の衰退とシルクロードの衰退

海のシルクロードが活発になり、中国との直接貿易がおこなわれるようになると、中央アジアを経由するシルクロードの交易量は激減しました。同時に、シルクロードを支配していたイスラム勢力も衰退し、点在していたオアシス都市も衰退の時期が訪れます。

それに伴って、オスマン帝国や中央アジアのイスラム諸国も衰退に向かっていったのです。産業革命によって近代兵器を携えたヨーロッパ列強やロシア帝国がイスラム勢力を圧倒するようになり、第一次世界大戦後にはオスマン帝国も崩壊してしまいました。

しかし、すでに喜望峰回りに代わってスエズ運河が建設されて、海のシルクロードを確保したヨーロッパ諸国は、中央アジア経由のシルクロードには興味を示しませんでした。船による物資輸送のほうが大量の物資を運ぶことができ、産業革命で生産力を高めたヨーロッパ列強の商品販売は海のシルクロードを経由しておこなわれるようになったのです。

現代でも、スエズ運河経由や中東地域からは大型貨物船や大型タンカーなどが頻繁に往来し、アジアにエネルギーや商品を運んでいます。

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