そもそも比叡山延暦寺とはどんな寺?
比叡山延暦寺とは788年に最澄(伝教大師)によって建立された寺で、天台宗の総本山でもあります。鎌倉仏教の創始者のほとんどがこの寺で修行していたことや、長年平安京を守護して、南都(奈良)の興福寺と区別するために北嶺とも称される日本における仏教において延暦寺は非常に重要な役割をした寺でした。
ちなみに、古典作品において山と書かれていたら十中八九比叡山のことです。
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信長が比叡山を焼いた理由とは?比叡山の歴史について
信長の1番の残忍な所業。長島一向一揆や越前一向一揆の殲滅など様々ありますが、その中でも1571年の比叡山焼き討ちは外せないでしょう。
しかし、比叡山の歴史を見てみるとそうとは言い切れない理由もあったのです。
まずは、信長による比叡山焼き討ちが行われるまでの比叡山の歴史を見ていきましょう。
延暦寺の武装化
788年の比叡山の開山以降、比叡山延暦寺は平安京の安全を願うために、毎日僧侶が修行し、仏門を学ぶ日本で有数の寺となっていました。
しかし、平安時代も終わりに差し掛かった頃になると比叡山延暦寺の僧侶たちは修行をしなくなっていき、自分たちの要求を朝廷に飲ますために山法師たちが暴れまわるようになっていきます。
これを強訴というのですが、これが非常に悪質なもので朝廷は神仏に逆らうことができないことを逆手に取り、比叡山の仏像や比叡山の麓にあった日吉大社の神輿を担いで御所に押しかけるようになりました。本当に悪質ですね。
この強訴には当時院政と呼ばれる政治システムによって強大な権力を持っていた白河上皇もお手上げ。
「鴨川の水、双六の賽、山法師、これぞ我が心にかなわぬもの」(よく洪水を起こしている鴨川と、サイコロの目と、山法師によると強訴はいくら俺でもどうしようもねーわ)という有名な句を残すほど比叡山は厄介な存在となっていったのです。
ちなみに、この時強訴を行いまくったのは比叡山だけではなく、なんと比叡山に並ぶ寺院として知られていた興福寺も同じようなことをしていました。
南都北嶺がこんな状態になるとは、最澄もおそらくあの世で泣いていることでしょう。
足利義教と延暦寺
さて、こうして平安時代後期になると比叡山は武装化していきましたが、鎌倉時代に入るとその強訴も落ち着いていくようになります。しかし、室町時代に入ると室町幕府と延暦寺の対立が激化。
まぁ、室町幕府は京都に置かれていたため、自然的に関わりを持つようになるのはわかると思いますが、これが第6代将軍足利義教の代になると比叡山を制圧する動きを見せるようになります。
実は、この足利義教という人は将軍になる前は義円という名前で比叡山延暦寺のトップの座主に就任していました。本来なら比叡山延暦寺の側に立つのが筋だと思いますが、将軍時代と僧侶時代は別というべきなんでしょうか。
足利義教は比叡山延暦寺を完全に制圧するために延暦寺の僧侶を殺害。これに抗議した比叡山側が根本中堂と呼ばれる比叡山で一番重要な寺で焼身自殺を遂げることになります。
なんと、比叡山延暦寺が焼失したのは信長の時が最初ではなかったのですね。
ちなみに、義教はこの制圧が終わると根本中堂を再建しているんですよ。一応恩義はあったのですかね。
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再度の武装化と二度目の焼き討ち
比叡山は足利義教の制圧に懲りたのか、義教が暗殺された嘉吉の乱以降再び自分自身を守る為に武装化をするようになります。比叡山延暦寺側も必死。さらに1467年に応仁の乱が起こり京都中が焼け野原になると比叡山延暦寺は再び政治に介入するようになったのです。
しかし、これを時の権力者は見逃しません。当時室町幕府の補佐をする管領に就いていた細川政元は彼と仲が悪かった足利義稙を匿っていると聞くと再び延暦寺を制圧。
せっかく立て直した根本中堂は再び炎に包まれることになったのでした。
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