信長による焼き討ちの開始
こうして比叡山を取り囲んだ信長。比叡山側はこの時になってようやく信長はマジで焼き討ちすることに気づき信長に対して臣従することを通達します。
しかし、信長はこの要求を突っぱねて9月12日信長は比叡山延暦寺に対して全面総攻撃を命じました。信長はまず比叡山周辺の坂本や堅田などの町を焼き払い、さらには比叡山に攻めのぼり延暦寺の中心である根本中堂を始め、延暦寺の名だたる寺を攻撃し、僧という僧をどんどん殺戮していったのでした。
信長公記にはこの様子について
「九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首を跳ね、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り」
とまさしく悲惨な状況だったと記録しています。
この戦争によっての比叡山側の死者は4000人だったと記録されており、比叡山延暦寺で修行していた僧たちは全員皆殺しにしたことが伺えますね。
焼き討ち後の戦後処理
信長による焼き討ちの後比叡山延暦寺の名だたる寺は全焼。比叡山開山からずっと守り通されてきた不滅の法灯もこの時に潰えました。(のちに比叡山から法灯を分けてもらった立石寺により分灯し今に至る)
信長はこの焼き討ちの後比叡山の麓の拠点の坂本は明智光秀に、比叡山自体は明智光秀・佐久間信盛・柴田勝家・中川重政・丹羽長秀の五人に配分されることになります。
一方の比叡山延暦寺の方はというと延暦寺の法主は運のいいことに比叡山延暦寺から外出していた所だったので甲斐を治めていた武田信玄の元に匿われるようになりました。信玄はこの庇護を受けて信長を打倒しようとついに信長との対決姿勢を見せ始めていくのですが、1573年に信玄が没したことによって比叡山延暦寺の復活は頓挫することになります。
その後、比叡山は正親町天皇によって度々再考するように命令が出されるのですが、信長はこの要請を受けることはなく、信長が本能寺の変で倒れるまで再興することはありませんでした。
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比叡山延暦寺のその後
その後比、叡山延暦寺は近江国中庄にて臨時の延暦寺が建てられそこで細々と存続していくことになります。しかし、1582年に比叡山延暦寺を焼き討ちした信長が本能寺の変で死去。このお陰で比叡山延暦寺に対する対応は良くなっていきます。
延暦寺は1585年に信長の跡を継いだ秀吉によってようやく比叡山に再びお堂と立てる許可を獲得。1587年には座主が再び就けるまでになり、根本中堂も仮の状態ですが、復興されるようになりました。
また、江戸時代に突入すると徳川家康の相談役として名を馳せた江戸時代最高の名僧天海によって比叡山延暦寺は完全に再興。
江戸時代に沢山再建された寺が今の延暦寺に繋がっているのです。
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