室町時代戦国時代日本の歴史

どうして信長は比叡山焼き討ちを行なったのか?信長の事業比叡山焼き討ちについて解説!

比叡山焼き討ちの真実とは?

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さて、ここまで比叡山の歴史を見ていきましたが、延暦寺は時の権力者に歯向い続け2度焼き討ちにあっているんですね。しかし、戦国時代に突入すると延暦寺は1567年に上洛を果たすことになる織田信長との対応を迫られるようになりました。

次は信長が比叡山を焼いた原因について見ていきましょう。

信長を悩ませていた包囲網

信長は1567年に上洛を果たしたあと、天下人の様に振る舞う様になり、将軍に据え置いた足利義昭の下、敵対する大名を討伐していく様になります。そんな中1570年に信長の上洛の命令を聞かなかったとして朝倉家を攻めに越前に侵攻することを決定しました。しかし、この決断によって婚姻関係の同盟を結んでいた浅井長政が離反(金ヶ崎の戦い)。さらに浅井家が離反した同じ年摂津の三好家と戦っている時に信長の命令に敵対心を持った石山本願寺が突如として信長に攻めかかります。(石山戦争)

さらに、信長に服従することを嫌がった将軍足利義昭も信長に反抗。各地の大名家に信長を攻めるような命令を出すようになりました。

こうして四方八方から取り囲まれたこの様子を信長包囲網と呼んだりします。

信長はここから10年間この包囲網をなんとかするために奮闘するのですが、その包囲網に加わっていたのが延暦寺だったのです。

延暦寺と信長

延暦寺は足利義昭の手紙を受けると次第に信長との対立姿勢を強めていきますが、そんな最中信長が比叡山が領地とていた地域を横領したという事件が起こります。延暦寺は1569年に当時の延暦寺のリーダーが後奈良天皇の息子ということを活かして朝廷に願い出て、朝廷も信長に対して比叡山に領地を返してあげなさいという綸旨(天皇の命令)を発令しました。しかし、信長はこれを無視。信長は比叡山に領地を返そうとはせず、姉川の戦いなどで浅井・朝倉軍を蹴散らすなどの活躍を見せました。

しかし、浅井・朝倉連合軍はとんでもないことをすることになるのですが、それこそが比叡山延暦寺への立てこもりだったのです。

たしかに比叡山延暦寺は2度制圧されていますが、延暦寺を攻めるということは日本の仏教に逆らうというのと同意義。浄土真宗を信仰していた石山本願寺とも敵対している信長からしたら攻めることはできないと踏んだのです。

手が届かない最強のバリアを手に入れた浅井・朝倉軍。これには信長もお手上げだったようで正親町天皇を仲介に和睦に出たのでした。

信長の延暦寺への警告

こうして浅井・朝倉軍は延暦寺から領国へと撤退するようになりましたが、ここから信長は延暦寺に対して敵視するようになります。

信長からしたら武士にも勝る武力を持った僧兵数千人が今京都を抑えている信長の喉元に位置している比叡山にいるということはかなりうざったらしいものだったのでしょう。

そこで信長は比叡山延暦寺に対して信長と敵対しないようにする手紙を送ります。

仏門の理屈もあるため信長に従うことはできないかもしれません。ですので中立の立場でいるのであればそれでいいです。とかかれていました。

さらに、信長の手紙にはさらに続きがあります。

「しかし、信長にこれからも敵対するのであれば根本中堂や比叡山延暦寺の寺々をことごとく燃やし尽くしますのでよくお考えください。」と書かれていたのです。

信長は比叡山延暦寺に対して焼き討ちを実行する1年前ほどにこの通告を比叡山延暦寺に対して通達していたらしく、もしも比叡山側が信長に従ってくれたらもしかしたら比叡山延暦寺は焼き討ちを受けずに済んだかもしれません。

しかし、比叡山側はこの通告を黙殺。それどころか再び浅井・朝倉軍の兵士達を比叡山に匿うなど信長を挑発するように見える行動を起こすようになったのでした。

やると言ったら必ずやるのが信長のスタンス。信長は信長の通告を受理しなかったことを理由についに焼き討ちを実行したのでした。

運命の焼き討ち当日

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こうして信長と比叡山延暦寺は敵対関係を激化させていき1571年ついに信長は比叡山延暦寺の徹底的な破壊を命令するようになりました。

信長はどのようにして魔王となっていったのか?次はそんな比叡山延暦寺の焼き討ちの経過にいて解説していきます。

焼き討ち前夜まで

1571年、この年の正月を迎えると当時近江国横山城の城主を任されていた秀吉に対して越前への通路を封鎖するように命令。

さらに柴田勝家・丹羽長秀などの信長の重臣達は南近江の城をどんどん攻城した落城させていき、結果的に比叡山の麓の町である坂本に到着しました。

信長の家臣達はこの時になって覚悟を決めたものもいたそうですが、もちろんこの焼き討ちに反対する人もいたそうで、織田家の筆頭家老である佐久間信盛は「桓武天皇の時に最澄が建立からずっと存在している比叡山延暦寺を燃やすのは前代未聞の戦争になりますぞ!」と反対したんだとか。

しかし、やると決めた男に迷いなんて存在しません。信長は聞き入れず3万の兵士で比叡山を包囲しました。

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