- 「真田丸」で知られた人気武将・真田信繁
- 真田昌幸の二男として誕生
- 関ヶ原の戦いの後、改易と流罪の憂き目に遭う
- 大坂城へ入城
- 敵を震え上がらせた真田の赤備え
- 力尽き、敵に首を差し出す
- 黒田官兵衛に可愛がられた猛将・後藤基次
- 黒田官兵衛に育てられる
- 主からの「奉公構」により浪人となる
- 大坂城五人衆のひとりとして活躍
- 孤軍奮闘の末、力尽きる
- 豊臣秀頼の最期を見届けた男・毛利勝永
- もともとは「森」姓、秀吉に大恩あり
- 豊臣秀頼の介錯をつとめる
- キリシタンを率いて戦場を駆けた明石全登
- 宇喜多家の重臣
- キリシタン兵を率いて大坂城に入城
- 乱戦の中、行方知れずとなる
- 長宗我部の御曹子が寺子屋の先生となり…長宗我部盛親
- 長宗我部家を継ぐも、関ヶ原後に改易
- 生に執着したのは、すべてお家再興のため
- 個性豊かな大坂城五人衆は魅力的!
この記事の目次
「真田丸」で知られた人気武将・真田信繁
真田信繁はもともと人気のある武将ですが、大河ドラマの主人公になったことでさらに人気が出たことを覚えていらっしゃる方も多いかと思います。以前は「真田幸村(さなだゆきむら)」の名前の方が有名でしたが、本来は「信繁」なんですよ。真っ赤な鎧に身を固めた精兵を率いて大坂の陣を席巻した彼の生涯を、ここではご紹介しましょう。
真田昌幸の二男として誕生
永禄10(1567)年、信繁は武田信玄に仕えた武将・真田昌幸(さなだまさゆき)の二男として生まれました。兄は真田信之(さなだのぶゆき)です。
武田氏が滅亡すると、父・昌幸は巧みな戦略を駆使し、織田・北条・上杉などの戦国大名の間を泳いで渡りました。ただ、次々と帰属を変える中で必要とされたのが、相手方に差し出す人質だったのです。その際に敵地に送られたのが、信繁でした。彼は多くの武将の人質となり、最終的には豊臣秀吉の下に送られたのです。
秀吉の下で、信繁はその護衛役である馬廻(うままわり)の一員となり、豊臣政権の重臣である大谷吉継(おおたによしつぐ)の娘を娶るなどし、中枢にパイプを作っていきました。
こちらの記事もおすすめ
甲斐の虎、武田信玄の生涯をわかりやすく解説! – Rinto~凛と~
関ヶ原の戦いの後、改易と流罪の憂き目に遭う
信繁は主に父・昌幸と行動を共にしています。
徳川家康による会津の上杉征伐には、父や兄と従軍していましたが、そこで石田三成の挙兵の報せを受けました。関ヶ原の戦いの勃発です。
家族会議の結果、父と信繁が西軍となり、兄・信之は東軍へと分かれることになりました。
そして信繁は父と本拠地の上田城へと戻り、徳川秀忠らの攻撃を食い止め、善戦を見せたのです。
ところが、関ヶ原本戦で西軍が敗北したため、信繁と父は敗残の将となってしまい、所領を没収された挙句、高野山、次いで九度山(くどやま)へと流されることになってしまったのでした。
こちらの記事もおすすめ
意外と知らない関ヶ原の戦い?戦いの背景からその後までをしっかり解説 – Rinto〜凛と〜
大坂城へ入城
九度山で失意のうちに父が亡くなると、やがて天下の情勢は豊臣家と徳川家の対決の様相を呈してきました。豊臣秀頼は戦を想定し、関ヶ原の戦いで所領を失った浪人たちを大坂城に召集したのですが、信繁にも招きがあったのです。
そこで、信繁はもう一度武名を挙げようと、息子を連れて大坂城へと入城し、ここで他の有力武将と出会い、大坂城五人衆の一員となったのでした。
大坂冬の陣での信繁の活躍は目覚ましく、出城である「真田丸」をつくり上げ、徳川方をことごとく退けてみせました。
しかし、信繁の活躍に反して、豊臣政権上層部は徳川方と講和を結んでしまいます。これにより真田丸は壊され、大坂城の堀まで埋められてしまったのです。
敵を震え上がらせた真田の赤備え
一時は、家康から寝返りの打診を受けたという信繁。しかし彼は豊臣秀頼への忠誠を理由にこれを断り、大坂夏の陣に望みました。
すでに敗色は濃厚でしたが、信繁は、赤備え(あかぞなえ)という赤一色の軍装をまとった精兵たちを指揮し、縦横無尽に戦場を駆け回りました。
「関東の武者たちは、その数百万とは言っても、男子はひとりもおらぬようだな」
との言葉を残し、悠然と撤退する姿が今に伝わっています。
しかし、形勢を逆転することは難しくなっており、信繁自身も死をすでに覚悟していたのでした。
力尽き、敵に首を差し出す
総大将・豊臣秀頼の出陣を望んだものの、それが果たされなかったことで、信繁は徳川家康本陣への突撃を決断しました。
真田の赤備えは、1万5千もの徳川勢を突破し、2度にわたって本陣へ突撃を仕掛けたのです。その勢いはすさまじく、あの家康が自害を覚悟するほどのものだったそうですよ。
しかし、数に物を言わせた徳川方に、次第に信繁の隊は押され、やがて瓦解します。
傷ついた信繁はひとり、神社の境内に辿り着きますが、そこで敵方の武者・西尾宗次(にしおむねつぐ)に発見されてしまいました。
すでに戦う力もない信繁は、西尾に対して「私の首を持って行って手柄にせよ」と言い、討ち取られたといいます。49歳でした。
信繫の活躍は敵方にも十分伝わっており、後に「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と称賛されました。実は小柄で年相応の容姿をした、一見冴えない容貌だったと言いますが、その働きはまさに天下無双。赤い甲冑に身を包み、戦場を駆けた信繁の姿は、今も多くの人々を魅了して止まないのです。
黒田官兵衛に可愛がられた猛将・後藤基次
後藤基次は、「後藤又兵衛(ごとうまたべえ)」の呼び名の方が有名かもしれません。天才軍師として名を馳せた黒田官兵衛(くろだかんべえ)に養育され、猛将に成長しました。しかし、その息子・長政(ながまさ)と折り合いが悪く、黒田家を出奔した後に辿り着いた先が、大坂城だったのです。豪傑として知られた彼の生涯を見ていきましょう。