安土桃山時代日本の歴史

滅びゆく豊臣家を支えようとした「大坂城五人衆」の生き様とは?わかりやすく解説

長宗我部家を継ぐも、関ヶ原後に改易

長宗我部元親の四男として天正3(1575)年に生まれた盛親ですが、長兄・信親の死により家督を継ぐことになりました。

将来有望だった信親が討死を遂げてからというもの、名君だったはずの父・元親は暗君化してしまい、長宗我部家は徐々に傾いていくこととなります。

父が亡くなり当主となった盛親ですが、関ヶ原の戦いで西軍に属したため、敗軍の将となり、改易されてしまいました。

その後は京都で蟄居し、一説には寺子屋で子供たちに学問を教える生活を送るようになったと言われています。

生に執着したのは、すべてお家再興のため

大坂の陣の直前、盛親は「勝利のあかつきには土佐一国」と豊臣秀頼に打診され、お家再興を夢見て大坂城へと入り、大坂城五人衆の一員となりました。豊臣方の中では最大兵力を有する一大勢力だったそうです。

冬の陣では真田丸の支援を行い、徳川方を退ける活躍を見せます。

夏の陣においては、味方が次々と敗れる中で盛親は果敢に反撃し、相手に大ダメージを与える働きを見せました。

しかし結局豊臣方は敗れ、大坂城は落城し、豊臣家は滅亡します。

一方、盛親は逃亡しましたがやがて捕らえられ、斬首に処せられました。

捕らわれた時には命乞いをしたと言いますが、それを嘲笑されると、「大将たる者、軽々しく討死すべきではない。折があれば再び挙兵して恥を雪ぐつもりだ」と言い放ち、最後まで生き延びてお家再興することに執念を見せたと言います。

名門の御曹子から一介の浪人にまで落ちぶれながらも、志を捨てなかった盛親。簡単には諦めない姿勢が、特異でもあり魅力的でもありますね。

個性豊かな大坂城五人衆は魅力的!

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大坂城五人衆の面々は、それぞれが個性的であり魅力的な武将ばかり。きっと誰かひとりは気になる武将がいると思います。滅びの道を歩むとも、最後まで武士としての華を咲かせ、散らすことに命をかけた彼らの生き様は、どこか清々しささえ感じますね。

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