豊臣秀頼の介錯をつとめる
しかし、密かに豊臣秀頼の招きを受けた勝永は、もう一度武士として一旗揚げたいという思いから、山内家を脱走します。そして大坂城に入城し、大坂城五人衆に名を連ねることとなったのでした。
勝永の活躍は、最後の戦いである夏の陣が主でした。道明寺の戦いで後藤基次を失い、意気消沈する真田信繁を叱咤すると、残兵をまとめ上げて次の戦いに臨んだのです。
真田信繁と共に家康本陣への突撃を決行した勝永は、多くの武将を討ち取り、幾重にも布かれた敵陣を突破し、ついには家康の本陣へと迫りました。
その勇姿を見た黒田長政は、「この間まで子供だと思っていたのに、こんなに立派になるとは!」と敵ながら感嘆するほどだったそうです。
しかし戦況は悪化の一途を辿り、勝永は大坂城に撤退します。そして豊臣秀頼の介錯をつとめた後、息子や弟と共に自害し、燃え落ちる大坂城と運命を共にしたのでした。
キリシタンを率いて戦場を駆けた明石全登
明石全登の名前は、「ぜんとう」、「たけのり」、「てるずみ」など多くの読み方が伝わっています。そして何より特徴的なのが、彼がキリシタン大名だったということ。主・宇喜多秀家(うきたひでいえ)が関ヶ原の戦いで改易されると、浪人となった全登は、大坂の陣の際にキリシタン兵を率いて現れたそうです。勇猛な戦いぶりを見せた彼ですが、実はその最期の詳細は不明なんですよ。彼はどこに行ったのでしょうか。
宇喜多家の重臣
明石全登は宇喜多秀家に仕え、家宰(かさい)として家の一切を取り仕切る重責を担った人物でした。その能力は豊臣秀吉にも認められ、宇喜多家臣であると同時に秀吉の家臣にもなっていたそうです。
関ヶ原の戦いでは、豊臣家に恩のある主君・秀家が西軍に属したため、全登もそれに従いました。前哨戦で勝利を収めると、本戦では宇喜多隊の先鋒をつとめ、善戦しました。しかし小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りによって西軍が総崩れになると、全登は主君に対して冷静に退却をすすめ、最も危険な殿(しんがり/最後尾)を担当したのです。
キリシタン兵を率いて大坂城に入城
その後、秀家は捕縛されて八丈島に流罪となります。主と離れ離れになった全登は、やむなく浪人の道を選びました。キリシタンだった彼は、同じくキリシタンであり親戚筋でもある黒田官兵衛を頼ったとも伝わります。しかしその息子・長政がキリスト教を禁じたため、他のキリシタン大名のもとへ移ったとも言われていますよ。
それから全登の消息はぷつりと途絶えますが、彼が再登場するのは慶長19(1614)年の大坂冬の陣の時のことです。
元々、豊臣方の宇喜多家臣だった全登ですが、徳川家康がキリスト教禁止に動いたこともあり、豊臣方に加担することを選んだとか。どこからかき集めたのか、数千にも及ぶキリシタン兵を率いて大坂城に現れたのだそうです。歴戦の勇将だった彼は歓迎され、大坂城五人衆のひとりとなりました。
乱戦の中、行方知れずとなる
全登は毛利勝永と同様、大坂夏の陣で最後の活躍を見せました。後藤基次を失った道明寺の戦いでは、伊達政宗隊を相手に互角の戦いを演じ、家康本陣突入を狙った天王寺・岡山の戦いでは、300名の決死隊を率いて突撃しました。
しかし、真田信繁の敗北などもあり、家康を討つことはかなわず、全登はそのまま消息不明となりました。乱戦の中で命を落としたと思われますが、落ち延びたという伝説も数々あり、秋田や高知などにそれが伝わっています。果ては、南蛮逃亡説まであるそうです。
徳川方は、戦後、「明石狩り」と称して全登の行方を徹底的に捜索したとも言われています。全登の能力は幕府にも恐れられていたのですね。
長宗我部の御曹子が寺子屋の先生となり…長宗我部盛親
長宗我部盛親は、土佐の雄・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の息子です。父の死後に長宗我部家を背負って立ちますが、関ヶ原の戦いで西軍に属したのをきっかけに、敗戦後は改易され浪人の身となってしまいました。寺子屋で子供たちを教えていたと言いますが、大坂の陣の際にお家再興を夢見て大坂城に入城します。最後までその野望を捨てることなく、泥臭く生きた彼の生涯を追ってみましょう。