安土桃山時代日本の歴史

滅びゆく豊臣家を支えようとした「大坂城五人衆」の生き様とは?わかりやすく解説

黒田官兵衛に育てられる

永禄3(1560)年、姫路近郊に生まれた基次ですが、幼くして父を亡くします。

そこで彼を引き取ったのが、軍師・黒田官兵衛でした。

官兵衛のもとで成長した基次は、官兵衛とその息子・長政に仕えるようになります。ただ、基次のクセのある性格は、剛毅な長政とは相容れなかったようです。敵を攻略できずに頭を丸めた長政を見て、「負ける度に坊主になっていたらいつになっても髪など生えん!」と吐き捨てたり、長政が敵と組み合って落馬しても加勢せず、「それで敵にやられるくらいなら、我が殿ではないわ!」と言ってみたりするなど、修復しがたい亀裂が生じてしまったのでした。

主からの「奉公構」により浪人となる

それでも、関ヶ原の戦いまでは長政に従っていた基次。しかし、慶長9(1604)年に官兵衛が亡くなると、途端に2人の仲は悪化しました。

そして、基次が長政と仲の悪い武将と勝手に手紙をやり取りしたところで、長政の怒りは頂点に達し、基次は黒田家を出奔します。すると長政は、「奉公構(ほうこうかまえ)」という、出奔した家臣が他の家に出仕することができなくなる回状を出し、基次の行き場を徹底的になくしてしまったのです。

多くの家からスカウトが来ていた基次ですが、奉公構が出ていてはどうすることもできません。

こうして、基次は京都で浪人生活をすることになってしまいました。

大坂城五人衆のひとりとして活躍

鬱屈とした浪人生活を送っていた基次のところに、豊臣秀頼が大坂城に浪人を集めているという話が飛び込んできます。さっそく彼は大坂城に入り、秀頼の前での閲兵式で見事な指揮を披露し、「摩利支天の再来」とまで称されました。これにより、大坂城五人衆のひとりに名を連ねることになったのです。

奉公構を出されているとはいえ、そうされるほどの力があったことの証拠。徳川家康からは50万石の領地を与えると働きかけがありましたが、基次は「弱きを捨てて強気につくことはできん!」と断ったそうですよ。

そして、経験がなく苦戦している若手の武将を見かけると、「戦はこうやるんじゃ!」と自ら鉄砲を手に撃ち返してみせるなど、豪傑ぶりが伝わるエピソードを残しています。

孤軍奮闘の末、力尽きる

しかし、冬の陣で和睦が結ばれると、豊臣方の斜陽は鮮明となります。

夏の陣では、基次は道明寺(どうみょうじ)の戦いの先鋒として出撃しました。しかし折からの濃霧により後続部隊が遅れ、基次隊は敵中に孤立してしまいます。10倍以上の兵力を相手に孤軍奮闘しましたが、力及ばず、討死を遂げたのでした。

生存説もささやかれた基次ですが、それはひとえに彼の人気の高さから来たものだったのでしょうね。

豊臣秀頼の最期を見届けた男・毛利勝永

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毛利勝永は、毛利元就(もうりもとなり)などで有名な毛利氏とは残念ながら関係はありません。しかし、幼い頃から聡明で、人の上に立つ器を持った武将でした。豊臣家に大恩があった勝永は、最後まで豊臣秀頼に付き従い、その最期を見届けます。いったいどんな人物だったのでしょうか。

もともとは「森」姓、秀吉に大恩あり

毛利勝永は、天正6(1578)年に毛利勝信の息子として生まれたといいます。父・勝信は、元々は「森吉成(もりよしなり)」と言い、途中で毛利姓に改姓しました。また、勝永自身の名も、本来は「吉政(よしまさ)」ではないかとされています。

父は豊臣秀吉の九州征伐などに従軍して功績を挙げ、九州の豊前・小倉に領地を得ました。勝永はなんと11歳で領地を与えられ、大名の接待役を務めるなど、聡明な少年だったと言われています。

親子で秀吉から信頼されていたため、関ヶ原の戦いでは当然、西軍に参加しました。勝永自身は戦功を挙げましたが、西軍の敗北によって所領を没収され、土佐の山内一豊(やまうちかつとよ)のところに預けられることとなってしまったのです。

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