日本の歴史昭和

日本海軍の花形だった「連合艦隊」とは?その歴史をわかりやすく解説

第二次世界大戦前まで、日本の海軍には連合艦隊がありました。映画などでも描かれており、知っている方もたくさんいらっしゃいます。しかし、この連合艦隊の歴史や実際の活動については良く知られていません。日露戦争や太平洋戦争時には連合艦隊の活動が目立っていました。この山本五十六などが活躍した連合艦隊について、ご説明します。

戦前の日本海軍には、主力艦隊として連合艦隊があった

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現在の日本には軍隊はなく、自衛隊が存在するだけですが、第二次世界大戦前までは、帝国海軍があり、そこには連合艦隊も所属し、南太平洋までもエリアとして活動していました。そこに所属する艦艇は、戦艦大和を中心に多数の大型戦艦、巡洋艦、空母などがあり、戦艦は巨大な大砲を備えていたのです。

現在、米国の日本の周辺海域を管轄している第七艦隊の旗艦は揚陸指揮艦ブルー・リッジですが、当時の日本の艦隊の旗艦は巨大な大砲を備えた戦艦でした。しかし、第二次世界大戦時にはすでに戦艦を旗艦とする艦隊配置は時代遅れになっていたため、戦争開始から半年が経過しますと、日本海軍は劣勢に立たされたのです。

しかし、明治時代以降の日本の帝国海軍に所属した連合艦隊は、第二次世界大戦までは、日本海軍の主力艦隊としてその存在を内外に示していました。

連合艦隊生みの親である日本海軍の生い立ち_帝国海軍の創設

日本の帝国海軍は、徳川幕府の軍艦を引き継いで創設されました。その関係で、海軍卿(大臣)には勝海舟や箱館戦争を起こした榎本武揚らがなっています。1876年の江華島事件は、日本海軍の艦船が訓練中に江華島沖で朝鮮兵によって砲撃を受けたことから始まりました。日本の艦船は、逆に砲撃によって朝鮮兵を圧倒して、日本に有利な不平等条約である日朝修好条規を朝鮮王朝に結ばせ、開国を実現させています。

海軍卿(大臣)にはあの徳川幕府軍艦奉行だった勝海舟も

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勝海舟は、1873年の明六の政変の後に、海軍卿に任じられましたが、1875年には台湾出兵に反対して海軍卿を辞任して、元老院議員となっています。直接は海軍の創設にはかかわっていませんが、神戸海軍操練所時代や咸臨丸時代の部下たちが海軍創設にかかわって、勝は彼らを背後から支援していました。したがって、日本海軍の生みの親ともいうべき存在であり、初代の連合艦隊司令長官伊藤祐亨も勝海舟の弟子的な立場の人物だったのです。

箱館戦争の主役榎本武揚も海軍卿に

一方、徳川幕府の江戸城無血開城に反発して、幕府軍船を率いて当時の箱館五稜郭に立て籠って蝦夷共和国総裁を自認した榎本武揚も、明治時代の1880年には海軍卿となりました。期間はわずか14ヵ月でしたが、それ以降、明治政府に加わって外務大臣などを歴任して、海軍にも影響力を持ち続けていたのです。

初代海軍大臣は西郷隆盛の弟の西郷従道

海軍省は、1885年に伊藤博文が初めて内閣を創設した時に創設され、初代の海軍大臣には西郷従道が就任しています。西郷従道は、有名な西郷隆盛の弟でした。その西郷従道も、2年半ほど海軍大臣として就任し、海軍の発展に尽くしています。陸軍は長州閥と言われていますが、海軍にはそのような派閥はなかったようです。

勝海舟以来の自由な気風

もともと、勝海舟は自由な気風を重んじる人であり、その部下だった人々の作った海軍は、その勝海舟の気風を受け継いでいました。きまじめで融通の利かない長州閥の陸軍に比べると、先進の西欧文化を受け入れやすい風土があったのです。スマートさが人気でした。

日本の帝国海軍連合艦隊の創設

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その日本の帝国海軍は、1894年に初めて連合艦隊を編成します。旧字表記では聯合艦隊とも書かれていました。連合艦隊は、2つ以上の艦隊で編成された帝国海軍の象徴とも言うべき存在として編成されたのです。

1894年と言えば、日清戦争の年であり、中国の清と戦うためには、本格的に国際的に通用する艦隊を持つことが必要でした。発案は、後に総理大臣にもなった当時の軍令部官房主事であった山本権兵衛大佐の提案だったのです。日清戦争開戦の6日後には編成されました。

ただし、この連合艦隊は、常設という訳ではなく、日露戦争などの戦時下や総合演習時のみに臨時編成される形でした。常設の連合艦隊が編成されたのは、1923年(大正12年)以降になっています。

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