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日本海軍の花形だった「連合艦隊」とは?その歴史をわかりやすく解説

有名な連合艦隊司令長官

連合艦隊の司令長官は、艦隊の総指揮をとりますが、1894年の初代連合艦隊司令長官には伊東祐亨中将が就いています。彼は、すでに記載したように勝海舟の弟子にあたる人であり、やはり自由な気風であったようです。

第二次世界大戦開戦時の第26代連合艦隊司令長官は、山本五十六中将(後に大将として27代目就任)で、開戦当初には連合艦隊は連勝を続けました。また、15代目司令長官鈴木貫太郎大将、23代目司令長官米内光政中将は、後に総理大臣にもなっています。特に、鈴木貫太郎は、1945年8月のポツダム宣言受け入れ時の総理大臣として有名です。映画「日本でいちばん長い日」などでも描かれています。そして、終戦時の31代連合艦隊司令長官は海軍のエースと言われた小沢治三郎中将でした。しかし、戦艦大和は就任前月に沖縄特攻作戦に参加して撃沈され、すでに軍艦もほとんどなく、軍艦を動かす燃料もないため、ほとんど活躍できなかったのです。

最初に日本の連合艦隊が注目されたのは明治時代の日露戦争

日本帝国海軍の連合艦隊が最初に世界的にも注目されたのは、日露戦争の時でした。日露戦争の当初は、旅順要塞を攻め落とすことができず、要塞からの砲撃によって旅順港に軍船が入ることができません。しかし、二百三高地を攻めたことで旅順要塞を攻略し、連合艦隊は旅順港に寄港するようになります。その中、ロシアがヨーロッパにいた最強と言われたバルティック艦隊を日本海域に移動されて、連合艦隊のせん滅を図ろうとしたのです。

しかし、それを阻止したのは、当時3代目連合艦隊司令長官に就任した東郷平八郎元帥(当時は中将)でした。

連合艦隊の名を高めた3代目司令長官東郷平八郎元帥

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広島の呉港を発した東郷平八郎元帥率いる連合艦隊は、関門海峡から対馬海峡に出ます。連合艦隊の旗艦は戦艦三笠で、東郷元帥はそこから全艦船に命令を発していました。この連合艦隊の様子は、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」にも詳しく記載されていますので、気の向いた方は読まれることをおすすめします。連合艦隊に参謀として参加していた秋山中佐の活躍とともに描かれているのです。彼は、後には海軍中将まで出世しています。

いずれにしても、連合艦隊としての初めての本格的な海戦になり、その決戦に勝ったことで日本帝国海軍の連合艦隊は世界的にその名を高めたのです。

連合艦隊のバルティック艦隊撃破_日本海海戦

連合艦隊は、気象条件を綿密に調べて、自分たちの艦隊に有利になるように向かいました。事前の気象情報は、「本日天気晴朗ナレドモ、浪高シ」です。すなわち、見通しはよいが、波が高いため、砲撃は当たりにくいという気象条件でした。

その中、バルティック艦隊は、一列縦隊で進んだのに対して、連合艦隊はその前に、横に並んで砲撃を開始したのです。すなわち、バルティック艦隊で砲撃できるのは先頭の船だけで、後ろは味方に当たるため砲撃ができませんでした。それに対して横に並んだ連合艦隊の艦船は一斉に先頭の艦船に向けて砲撃を集中でき、浪の高い中では命中率に大きな差が出たのです。そのため、バルティック艦隊の艦船は次々と海に沈んでいきました。こうして、バルティック艦隊有利と言われていた日本海海戦は日本の連合艦隊の大勝利に終わったのです。

この日本海海戦に勝利したことによって、日露戦争の戦局は決まり、帝国海軍の連合艦隊の強さは世界に驚きを持って伝えられました。それは、あたかも16世紀末にイギリス海軍が、当時世界最強で無敵艦隊と言われたスペイン艦隊を撃破した時の驚きに似ていたのです。

第二次世界大戦(太平洋戦争)開戦時の日本の連合艦隊司令長官山本五十六

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1940年に、日中戦争で攻勢を続ける日本は、アメリカを中心とした連合国との交渉が行き詰まる中、連合艦隊司令長官に山本五十六を正式に就任させます。山本長官はもともと日米開戦には反対でした。戦力面で大きな差があり、しかもアメリカ本土に攻撃をおこなえる爆撃機もありません。さらに、山本長官は、海戦の主役は巨砲を備えた巨大戦艦から、艦載機を多く載せた空母が中心になることを予見していました。しかし、日本の上層部はそれを理解しておらず、艦載機の少ない空母のみで、数も足らなかったのです。

しかし、陸軍の東条英機が首相に就き、完全に軍事政権になると、開戦論が高まりました。山本長官は、「開戦半年なら勝てるが、それ以上は無理だ。その間に和平交渉をまとめてほしい」と言っています。日米交渉は、野村大使と米国務長官ハルの間でおこなわれました。しかし、軍部政権は、交渉決裂を前提に開戦の許しを天皇からもらい、開戦を前提とした作戦を山本長官に強要したのです。

そのため山本長官は、ハワイの真珠湾を戦闘機で急襲する作戦をたて、機動部隊を、太平洋北部を回って日米交渉が決裂した時にはすぐに奇襲攻撃ができるように、待機させました。

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