日本の歴史昭和

日本海軍の花形だった「連合艦隊」とは?その歴史をわかりやすく解説

「ニイタカヤマノボレ」の暗号とともに開戦_真珠湾攻撃

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日米交渉は、12月2日に最終交渉がおこなわれましたが、決裂してしまいます。そして、1941年(昭和16年)12月3日、山本長官らの元に、「ニイタカヤマノボレ1208」という日米交渉決裂による開戦決定の暗号が送られました。このタイミングについては、決裂以前に発せられていたという説もありますが、真実は闇の中です。

真珠湾攻撃は成功し、戦艦4隻の沈没をはじめ、真珠湾にいたアメリカ海軍に大きな損害を与えました。そのため、山本長官の予想通り、開戦から半年間は日本軍は連戦連勝でした。しかし、山本長官は、真珠湾攻撃を成功とは考えていなかったのです。ハワイの真珠湾には空母がおらず、空母やその艦載機は無傷でした。しかも、連戦連勝によって日本国内が沸き上がっただけでなく、軍部にも油断が広がったのです。さらに、米国は、日本の無線暗号を読み取るようになっていました。そのため、真珠湾攻撃から半年後におこなわれたミッドウェイ海戦においては、南雲中将の判断の誤りもあり、大敗を喫して、数少ない空母の多くが沈没させられたのです。

敗北の主因は空母の弱さ

ミッドウェイ海戦の敗因は、情報が漏れ、アメリカの攻撃機が待ち伏せしていたことと、100機以上の攻撃機を搭載できる空母がほとんど無傷で待機していたことにありました。基本的には山本長官の予見通り、空母による制空権争いの展開になったのです。しかも、軍事政権は、勝利に酔って和平交渉はおこなおうとせずに、空母の新建造もなく、太平洋、アジアでの戦局を拡大させていました。そのため、ミッドウェイ海戦に敗れた後は、敗戦続きで拡大した戦局を縮小し、後退するしかなかったのです。

制空権争いに敗れた日本海軍の連合艦隊は後退を余儀なくされた

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すでに、海上における戦いは、航空機による制空権を争う戦争に移行しており、日本は航空機とそれを運ぶ空母が不足していたのです。戦闘機は、当初は零戦が個々の戦闘ではアメリカ機を圧倒していました。しかし、アメリカは、スピードの速い新しいムスタングなどの戦闘機を次々に投入したのに対して、日本は零戦を上回る後継航空機を開発することができなかったのです。そのために、次第に日本海軍の連合艦隊も戦闘力を失い、太平洋南方に展開してした戦線から撤退せざるを得なくなっていきました。

現在でも、世界の海軍は、巨砲を持った戦艦は作らず、空母とともに新鋭のイージス艦(駆逐艦・巡洋艦)に中心は移っているのです。

戦艦重視政策のつけが_連合艦隊司令長官山本五十六の撃墜死

反撃の糸口を見つけられないまま、連合艦隊司令長官山本五十六は、1943年4月18日にラバウル基地からブーゲンビル島を経由して戦線の視察に向かいます。しかし、その動きをアメリカに無線傍受されて待ち伏せにあい、ついに飛行機とともにブーゲンビル島で帰らぬ人となったのです。部下の小沢治三郎中将は、護衛機を50機以上に増やすことを進言しましたが、戦力的に無理はできないと断り、わずかな護衛機で出発したのでした。

これによって、連合艦隊は優秀な指揮官を失い、その後サイパン島を失った結果、アメリカは日本本土への爆撃を開始したのです。

勝手に動く艦隊司令官たちが敗北を誘った

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山本長官の率いる連合艦隊には多くの艦隊が所属していましたが、勝手な判断で勝機を失うこともたくさんありました。ミッドウェイ海戦敗戦も南雲中将による誤った判断が大きく、レイテ沖海戦も栗田中将の独断専行が勝機を失った原因だったのです。

また、山本長官の後を継いだ28代連合艦隊司令長官の豊田大将は、長期の見通しを持たないままに作戦を進行させ、後退を余儀なくされました。

軍令による戦艦大和の自爆沖縄戦線への投入が連合艦隊の最後の勇姿

そして、船を動かす燃料が少なくなり、銃弾もなくなってきたことから、海軍軍令部は、片道燃料しか入れない特別特攻隊を編成し、多くの若者をアメリカ艦船に突っ込ませたのです。これがアメリカに恐れられた神風特攻隊でした。そして、ほとんどの艦船を失った海軍は、最後に1945年4月に、無傷で残っていた海軍の象徴であった戦艦大和を沖縄戦線に特攻させたのです。護衛機もなく、片道燃料の戦艦大和は、無数のアメリカ戦闘爆撃機の集中攻撃を受け、東シナ海の藻屑となりました。これによって帝国海軍はほぼ戦闘能力がなくなり、最後に連合艦隊司令長官になった海軍のエースと言われた小沢治三郎も何もできなかったのです。

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