湾岸戦争の背景
20世紀初頭から現代にいたるまで、中東地域は多くの紛争の舞台となってきました。第一次世界大戦、4度にわたる中東戦争、イラン=イラク戦争、そして今回取り上げる湾岸戦争。紛争の背景には宗教問題だけではなく、第一次世界大戦後の戦後処理で引かれた国境線がもたらす問題もありました。湾岸戦争の背景について掘り下げましょう。
第一次世界大戦の戦後処理とイラク・クウェートの独立
第一次世界大戦前、中東地域はオスマン帝国の支配下にありました。オスマン帝国はドイツ・オーストリアなどの枢軸国に加担。オスマン帝国は枢軸国と戦っていた連合国のイギリスなどと中東地域で戦っていました。
イギリスは戦いを有利に進めるため、様々な秘密協定を結びます。戦争終了後、サイクス=ピコ協定やフサイン=マクマホン協定などの内容などにもとづき、イギリスとフランスはオスマン帝国領を分割。アラビア半島ではサウジアラビアが独立しました。
イラクやクウェートはイギリスの支配下に入ります。1921年にイギリスの保護下でイラク王国が成立しますが、クウェートはイギリスの保護国のままでした。1961年、クウェートはイギリスとの保護条約を破棄して独立。イラクはクウェートの領有権を主張しましたが周辺国の理解を得られず、この時はあきらめます。
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イラン・イラク戦争
イラン=イラク戦争の開戦直前、イランはホメイニ師によるイスラム革命が成功していました。アラブ諸国はイランのシーア派によるイスラム革命が周辺に拡大するのではないかと警戒します。
隣国のイラクを支配していたサダム=フセインは北部のクルド人、南部のシーア派を抑圧することで政権を維持していたため、シーア派革命の拡大を特に恐れました。
1980年、かねてから国境問題や石油資源をめぐって対立していたイラクはイランに軍事侵攻を開始。戦争がはじまりました。革命の拡大を恐れるサウジアラビアやクウェートなど周辺諸国はイラクを支持。アメリカもイラン革命の輸出を恐れイラクに軍事援助を行いました。
戦争は一進一退の状況が8年も続き、1988年にようやく停戦します。戦争中、イラクは各国からの資金援助を使い最新鋭の武器を購入。それらの武器により戦争後も中東有数の軍事大国として強大化したのです。
イラクとクウェートの対立
イラクはイラン=イラク戦争の武器購入などのため巨額の借金をしていました。戦争による被害も大きく、経済復興は遅れます。イラクの主要な輸出品は原油でしたが、1980年代の末は原油安の時代でイラクの収入は伸び悩みました。
イラクはOPECの場で原油価格を引き上げるよう求めましたが、サウジアラビアやクウェート、アラブ首長国連邦などは聞き入れません。それどころか、クウェートやアラブ首長国連邦は増産したため、石油価格はさらに下落。イラク経済に大きな打撃を与えます。
イラクとクウェートの緊張が高まる中、イラクとクウェートにまたがるルマイラ油田をめぐる両国の対立が激化しました。関係が悪化したクウェートはイラクに対し、かつて無償援助した100億ドルの返済を要求しましたがイラクは拒否します。両国の対立はピークに達しつつありました。
湾岸戦争の経緯
1990年8月、イラク軍は突如としてクウェート国境を越えて進撃を開始。クウェートの併合を宣言しました。アメリカを中心とする国際社会はイラクの行動を認めず、直ちに撤退するよう要求しますがイラクは拒否。アメリカなどは多国籍軍を編成してイラクと戦うことになりました。湾岸戦争の経緯についてまとめます。
イラク軍、クウェートを占領
クウェートとの緊張が高まるとサウジアラビアやエジプトといったアラブの大国が仲介乗り出しました。イラク大統領のフセインはクウェートがルマイラ油田から勝手に石油を盗掘したとしてクウェートを非難する姿勢を崩しません。両国の交渉はまとまらず、膠着状態となります。
1990年8月2日、イラク軍10万人が突如、クウェート国境を越えて侵攻を開始しました。仲介にあたっていた周辺諸国もイラクの動きを全く把握していません。不意を突かれたクウェートはほとんど抵抗できず同日中に全土をイラク軍に占領されます。
クウェート首長ジャービル3世はサウジアラビアへと亡命しました。イラク軍による電撃作戦は戦術的には完全に成功します。イラクはクウェートを併合し19番目の州とすると宣言しました。