アメリカの歴史独立後

アメリカ一強時代の始まり「湾岸戦争」背景・経緯・影響をわかりやすく解説

国連決議と多国籍軍編成

イラクのクウェート侵攻に対し、国際連合は安全保障理事会を開催。即時無条件の撤退をイラクに対して要求する決議を採択しました。8月6日にはイラクへの経済制裁の決議も採択。中東地域の政治情勢が不安定化したことを受けて石油価格は急騰しました。

アメリカ大統領のブッシュはイラクに対して武力攻撃を決定。多国籍軍の編成に取り掛かりました。クウェートに続き自国が侵略されることを恐れたバーレーン、アラブ首長国連邦といった湾岸諸国もアメリカに同調します。多国籍軍に参加した国はアメリカのほかにイギリス・フランス・エジプト・サウジアラビアなど合計28カ国、兵員68万人に及びました。

多国籍軍はイラクと国境を接するサウジアラビアに展開し防衛する体制をとります。これをアメリカは砂漠の盾作戦と称しました。多国籍軍の素早い展開はイラクの軍事行動を抑制します。

イラクの反応と人間の盾

イラクは国際連合の決議を無視し、クウェート併合を既成事実化しようとします。さらに、イラクはイスラエルによるゴラン高原やガザ地区の占領をアメリカが認めていることを指摘し、アメリカの態度は矛盾していると非難しました。

イラクはイスラエルを戦争に巻き込むため、スカッドミサイルを撃ち込むなど挑発行為を実行。アラブ諸国の支持を取り付けようとしましたが、イスラエルが自重したこともありうまくいきませんでした。

また、クウェート国内から脱出できなかった外国人を「人間の盾」として人質にすると発表。自国内の軍事施設などに監禁しました。人間の盾は各国から激しい批判を浴び、湾岸戦争開戦直前までに人質は解放されます。その間、多国籍軍は着々とイラク攻撃の準備を進めていました。

砂漠の嵐作戦と砂漠の剣作戦

1991年1月17日、多国籍軍はイラクに対する大規模な爆撃を実施します。サウジアラビア領からイラク国内を爆撃するもので、クウェート方面に兵力を集中させていたイラク軍は虚を突かれました。この空爆作戦を砂漠の嵐作戦といいます。

攻撃はアメリカ海軍による巡航ミサイルトマホークによっても実行。激しい空爆はイラクの防空体制は早期に崩壊させ、多国籍軍が制空権を確保します。空爆によってイラク軍の戦力を削いだ後、2月24日に多国籍軍はクウェートへと進撃し地上戦が始まりました。

空爆で多くの軍事施設を失っていたイラク軍は士気が低く、敗退を重ねます。2月25日にはイラク軍は撤退を開始。多国籍軍を敗走するイラク軍を追撃して壊滅させました。この地上戦を砂漠の剣作戦といいます。3月3日、イラク軍と多国籍軍は暫定停戦協定を締結し、戦闘は終了しました。

湾岸戦争の影響

イラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争は、アメリカ中心の多国籍軍の勝利で幕を閉じました。湾岸戦争はポスト冷戦時代のはじめての大規模戦争であり、アメリカ軍の強さを印象付けました。その一方、日本は多額の資金援助をしながら国際的には評価されず、国際貢献のあり方を議論するきっかけとなります。

アメリカ一強時代の始まりとアメリカへの反感

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ソ連の弱体化とその後の崩壊により、1990年代はアメリカ一強の時代となりました。その一方、冷戦時代と比べると民族紛争や地域紛争、宗教的対立が激化したことは否めません。アメリカは民主主義と自由を守る「世界の警察」としてふるまい、世界各地に軍事力を展開しました。

しかし、アメリカのこうした振る舞いは中東やアフリカ、ラテンアメリカなどで強い反米感情を引き起こします。特に中東では反米感情がかつてないほど高まり、アルカイダなどが台頭する一因となりました。

このことが、9.11の同時多発テロへとつながっていきます。また、ラテンアメリカでは反米を掲げるチャベス政権が誕生。強大すぎるアメリカに対する反感は世界各地に広がっていったのです。

日本への影響

日本は湾岸戦争ではアメリカなどの多国籍軍を支持します。憲法によって海外派兵ができない日本は多国籍軍に多額の資金援助をしました。しかし、自衛隊を派遣しない日本の決定に対しアメリカなど多国籍軍から批判の声が上がります。国内でもお金だけでよいのかといった議論が巻き起こりました。

それらの声に押されて政府は自衛隊の海外派遣を検討。1991年6月にペルシア湾に自衛隊の掃海艇を派遣しました。さらに1992年には国連平和維持活動協力法、いわゆるPKO法案を可決。カンボジア内戦や米軍によるアフガニスタン攻撃などで自衛隊を派遣します。湾岸戦争は国際貢献の名のもとに、自衛隊の海外派遣が行われるきっかけを作ったといえるでしょう。

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