永倉新八、近藤勇にぶち切れる!
池田屋事件や蛤御門の変で一躍有名になった新選組。その局長の近藤勇は時の人となりました。一介の道場主が天下に名を轟かすなんてことになったら、つい増上慢になってしまうのは人の常。おまけに「隊士はあなたの家来だと思っていいです」などと武田観柳斎に吹き込まれたという噂もあり、調子に乗ってしまう行動が目立って隊士達から不満が出てきたんですね。
清廉潔白な永倉新八は、斎藤一・原田左之助・島田魁・尾関政一郎・葛山武八郎を伴って、脱退覚悟で「近藤の非行五ヶ条」というものを会津藩公用方の小林久太郎に差し出しました。永倉新八が残した『新選組顛末記』によると「右五ヶ条について近藤が一ヶ条でももうしひらきあいたたば、われわれ六名は切腹してあいはてる。もし近藤のもうしひらきあいたたざるにおいては、すみやかにかれに切腹おおせつけられたく、肥後候(松平容保)にしかるべくおとりつぎありたい」 とありますね。さぞや松平容保も困ったようで、お互いを取りなして和解させることになりました。
永倉新八と同志との別れ
近藤勇が江戸に隊士を募集に出かけた時に、藤堂平助が師匠の伊東甲子太郎を紹介して新選組に入隊させました。これが悲劇の始まりだったのですね。総長として新選組の智恵袋だった山南敬助の居場所がなくなってしまいました。他にも隊士が増えて屯所が手狭になったために西本願寺に移転するという話が出た時に反対したものの受け入れられなかったことなどがあり、山南敬助は脱走してしまったのです。
沖田総司に連れられて帰ってきた山南敬助は、脱走したことによってたとえ幹部であっても切腹を申しつけられました。永倉新八は「自分はどうなってもいいから逃げろ」と言いますが断られます。ドラマや小説などで有名な恋人の島原の遊女・明里を、永倉新八が知らせて死の間際に会わせるシーンがありますが、『新選組顛末記』や『浪士文久報国記事』には記述がありませんので、子母沢寛の創作ではないかといわれていますね。
池田屋で共に戦った藤堂平助は、伊東甲子太郎が分派して作った「御陵衛士」について行ってしまいました。その御陵衛士が近藤勇を暗殺するという計画を、密偵として参加していた斎藤一の知らせによって知らされ、新選組隊士の大石鍬次郎が伊東甲子太郎を暗殺します。帰りが遅いことから伊東甲子太郎を迎えに来た御陵衛士たちを新選組が待ち構えていて殺害しました。中に藤堂平助がいましたが、近藤勇から「生かしたい」という言葉を聞いていた永倉新八は逃げ道を作りましたが、それを知らない隊士の三浦常三郎が追いかけて相打ちしてしまいます。
永倉新八の恋
永倉新八には妻同然の亀屋の芸妓・小常という女性がいました。王政復古の大号令で伏見に出撃する2日前に産後の肥立ちが悪く死去しました。過去帳にも「妙董信女」という戒名をつけて記載しています。
その小常との間に磯子という一人娘がいました。永倉新八とは鳥羽に行く寸前に乳母の岡田貞子が生後間もないお磯を抱いて面会に来たため、忙しく小常の葬儀にも出られなかった永倉新八は、娘と会うことができたのですね。明治20年京都で女役者となり尾上小亀と名乗っていた磯子と再会をしていますが、その後の消息は不明です。
戊辰戦争と永倉新八
慶応4年(1868)御陵衛士に狙撃された近藤勇と結核で療養している沖田総司がいないなか、土方歳三が隊長となり「鳥羽伏見の戦い」に参戦します。淀千両松では永倉新八は決死隊をつくり刀一つで突撃するということをしましたが、戦い自体が新政府軍の近代兵器と錦の御旗の効力によって敗退して大阪に退きました。
江戸に帰り新選組の名前を改めた「甲陽鎮撫隊」として新政府軍と甲州勝沼にて戦いますが、1日違いで新政府軍に目指す甲府城をとられて敗退します。江戸へ戻り会津へ行くことを提案する永倉新八と、その前に再起を計ろうとする近藤勇と意見が衝突し「我カ家来ニ相成ルナラ同志イタスヘク左様ナケレハゼヒナク断リ申」と言われ、以前の訴訟の時にできはじめた溝が決定的となり「同志であって家来になったおぼえはない」と袂を分かつことになったのですね。
共に近藤勇の元を離れた原田佐之助とも別れ、若い頃に一緒に諸国を武者修行をした市川宇八郎と「靖兵隊」を結成し、宇都宮や会津などで転戦したものの、米沢藩で会津藩の降伏を知って江戸へ帰還することになりました。
こちらの記事もおすすめ
一からわかる戊辰戦争と箱館戦争 – Rinto~凛と~
明治以降の永倉新八の生活はどんなんだろう?
明治2年2月、松前崇広の家老・下国東七郎の計らいで松前藩に帰参することができました。これは大叔母の長倉勘子が第十二代松前藩藩主・松前資広の側室として寵愛を受けていた影響が大きかったのです。
江戸で松前藩のフランス式練兵を担当することで150石の禄をもらっていましたが、休日に運悪く伊東甲子太郎の弟の鈴木三樹三郎と出会ってしまいます。とてもかなわないと鈴木三樹三郎は逃げていきましたが、その後につきまとう者がいたりして、藩に相談したところ 松前藩の藩医である杉村松柏が婿養子を求めていることを教えてもらい、さすがに鈴木三樹三郎も函館まで来ないだろうと承諾しました。
永倉新八は小樽へ
明治6年(1873)、家督を相続して杉村義衛と改名して小樽へ移る。明治15年(1882)から4年間、樺戸集治監(刑務所)の看守に剣術を指導するために上京しました。明治32年(1899)退職後にしていた剣術道場をたたみ小樽へ戻ります。明治42年(1909)7月、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)の剣道部を指導することになったのです。高齢となっても剣術指導というところが、永倉新八らしいですね。ただし、稽古途中で身体を痛めて馬車で帰ってきたそうですが。